先進オフィス事例

~オフィスを経営の力に~

パシフィックコンサルタンツ株式会社

2017年1月取材

※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

「共創」をキーコンセプトに最適なコミュニケーション環境を構築

社会インフラに関する企画、立案、調査、計画、設計、施工監理、運営・維持管理、マネジメントなどの事業に取り組むパシフィックコンサルタンツ株式会社。創業以来、日本におけるコンサルティング・エンジニア企業の草分けとして、社会に世界水準の技術やサービスを提供してきた。今回の取材は、2拠点を一ヵ所に統合した事例として、その経緯やコンセプトについてお話をお聞きした。

プロジェクト担当

外所 美知子氏

パシフィックコンサルタンツ株式会社
戦略企画統括部 広報室長
(ワークライフバランス推進事務局)
油谷 百百子氏

山田 雅崇氏

パシフィックコンサルタンツ株式会社
戦略企画統括部 経営企画部

鈴木 崇之氏

スキップヒル

受付横のデジタルサイネージ

はやわかりメモ

  1. 企業として事業展開の拡大に伴いCI戦略に取り組むタイミングだった
  2. 最大の課題は「部門連携の強化」。そして設備の老朽化、BCP対応

  3. 新しいオフィスの条件は、立地・コスト・BCP・設備・プランの5つ

  4. 移転を機に、人の流れを考えたワークスペースへと大きく変更

  5. 新たにコミュニケーションやつながりを意識した多くの機能を追加

企業として事業展開の拡大に伴いCI戦略に取り組むタイミングだった

パシフィックコンサルタンツ株式会社は1951年9月、米国法人Pacific Consultants Inc.として創業、1954年2月には同社を解散して日本法人として設立された。共同創業者の一人アントニン・レーモンドは建築家としても有名で、戦前・戦後の日本に多くの作品を残した。ちなみに近代建築三大巨匠の一人であるフランク・ロイド・ライトの助手として千代田区内幸町の「帝国ホテル東京」の設計を行ったことでも知られている。

「創業当時の日本には、まだ『建設コンサルタント』という職業自体が存在していませんでした。戦後の復興にあたりアメリカ側の要請もあり、民間技術者による建設コンサルタントの必要性が高まったことで誕生したとされています。正式に確認したわけではありませんが、社内に残る記録には、社名に『コンサルタント』と付く日本初の会社だとあります」(油谷 百百子氏)

同社は設立以来、公共事業を中心に建設コンサルタント業(サービス業)を展開してきた。主な顧客は国や地方自治体のためこれまでの実績や信頼、提案が重視され、広報やPRは不要とされていた。だが、今後は公共事業が縮小傾向にあり、これを補うべく民間や海外への顧客開拓が必要不可欠となった。これに伴い広報室を新設し、広報・PRについても積極的に取り組むようになったのである。

「建設コンサルタントのリーディングカンパニーとして、『まずは業界を知ってもらい、次に私どもの会社を知っていただきたい』という想いから取り掛かりました。社名が長いため、協賛バナーにロゴを表示したときに見えないといったこともあり、CI戦略を考えるタイミングでもありました」(油谷氏)

「偶然、CI戦略と移転プロジェクトの時期が重なりましたが、企業ブランディングの効果を考えるという意味では、移転が同時期となったことは、非常によかったと思います」(鈴木 崇之氏)

最大の課題は「部門連携の強化」。そして設備の老朽化、BCP対応

移転前、同社の本社オフィスは東京都下部の多摩市に立地しており、それとは別に首都圏本社として新宿区内に拠点が設けられていた。2拠点に技術部門が分断されていたため、部門間での密な連携が取りにくいという経営上の課題を抱えていたという。

「打ち合わせをするにも日程調整から始めなければならず、移動時間も必要になる。かなりの時間や交通費がかかっていました」(鈴木氏)

その他、旧オフィスの課題に設備の老朽化もあげられる。

「旧本社オフィスが入居していたビルは、築約30年経過しており設備の老朽化が課題になっていました。これに伴う費用負担が増加傾向にあり、耐震性能やBCP機能なども脆弱でした。そんな課題を抱える中で2011年3月に東日本大震災が起こりました。ビル自体に損害があったわけではありませんが、住宅地に立地していたために震災後に計画停電の対象区域とされてしまったのです。当社は災害時の復興支援も事業の一つにしていますから、停電で事業活動が停止するというのはあってはならないことです。改めて立地改善の必要性を痛感することになりました」(油谷氏)

「そのほか、移動面でのマイナス要因ですね。当社の事業内容を考えると大災害時には主要省庁への迅速なアクセスを意識する必要がありました。また、近年では海外での事業も積極的に展開していますが、海外からのお客様に不便さを感じさせていました。なにしろ成田空港や羽田空港に到着してから本社に着くまでに乗り換えなどを入れるとかなりの時間を要していましたので。また、いくら同路線内といっても本社と新宿オフィスの行き来にも時間のロスが生じます。ですから早い段階で立地を見直し、これまで以上に部門連携の強化と業務効率の改善を図るために事業所を統合する必要があったのです。そのため都心への本社移転を検討しはじめました」(鈴木氏)

2014年夏ごろから移転の必要性についての議論が行われ、2015年1月から具体的な移転先の検討に入った。

新しい移転先の優先条件は、立地・コスト・BCP・設備・プランの5つ

今回の移転計画が具体化する少し前、取引先銀行を通じて物件の紹介があった。そのとき社内で徹底的に議論を重ねたという。最終的に実現にはいたらなかったが、これが会社として、「オフィスのあるべき姿」の共通認識を持つきっかけとなったという。

「具体的に移転を検討する際の必須条件として、立地・コスト・BCP・設備・プランの5つを優先させました。ここでいうプランとはオフィスフロアの形状のことです。そしてこの中でも特に『立地』を最優先課題とし、この条件の中で取捨選択しながら移転先の候補を絞り込んでいきました」(鈴木氏)

こうして、千代田区紀尾井町・中央区銀座・港区北青山・港区六本木などの大型物件を移転先の候補として情報を取り寄せた。立地選定にあたり社内で激論が交わされ、最終的に決定したのが千代田区神田錦町の現入居ビルである。このビルは最新の免震構造や非常時設備を採用しており、BCPの業務にも携わる同社も納得した。

「万一、災害が起こったときの業務の対応や従業員の安全確保のことも考えました。さらに、ここでしたら霞が関の国土交通省庁舎まで徒歩で行って情報を収集することもできます」(鈴木氏)

「また、米国法人としての創業当時、日本支社は丸の内の旧丸ビルに開設されており、千代田区は同社にとって『創業の地』であるということもいえます」(油谷氏)

2つに分かれた拠点の統合のため、当然、従業員の通勤のことも考えなくてはならない。従業員数は本社勤務が約800名、西新宿の首都圏統括本部勤務が約700名。前者は京王線沿線の在住者が多く、後者は千葉・埼玉・神奈川在住者が多いため、双方にとっての利便性を考える必要があったという。

「このビルの最寄り駅である神保町駅は、東京メトロ半蔵門線・都営新宿線・都営三田線の3路線が利用でき、新宿線は京王線との相互乗り入れ運転を行っています。京王線沿線在住の従業員が多いこともあり、これが決め手の1つとなりました。東京メトロ東西線の竹橋駅や丸の内線の淡路町駅、千代田線の新御茶ノ水駅、JR御茶ノ水駅も利用できますから、それぞれ千葉方面・埼玉方面・神奈川方面からの通勤の便も良く、西新宿時代よりもむしろ近くなったという従業員も少なくないようです」(鈴木氏)

さらに、前述した5つの必須条件の中で、プランに関しても条件を満たしていたという。奥行18mの「コの字型」平面プランで、フロア面積は約640坪。5フロアを賃借しているから合計約3,200坪の使用となる。現ビルではエレベーターコアが中央ではなく片寄のため、同社の思い描いていたレイアウトを展開できる。見通しの良い空間を求めていたため、そんなオフィス形状も現ビルを選んだ重要なポイントになった。

「そうして2015年2月末に移転先を確定させ、そこから正式に移転プロジェクトがスタートしたのです」(鈴木氏)

移転完了のスケジュールは決められていた。この時点で、残り時間は半年あまり。タイトすぎるスケジュールで進行することになる。

「当社は毎年1月~3月が繁忙期となります。10月から徐々に忙しくなるため、従業員が移転作業に従事できるのは6月~9月の3ヵ月足らずの間に限られていました。そのため無理を承知で、2015年9月までに移転を完了するしかありませんでした」(油谷氏)

「誰がどれだけ反対しようが、とにかくやるしかない。そう考えて、どんどん進めていきました。方針立案を行うプロジェクトチーム(以下、PT)は約20名、他に実務を行うワーキンググループ(以下、WG)が約15名。PTは、本社系統括役員と現場統括役員をトップに据え、バックオフィスの部門長及び各事業本部から選任されたメンバーで構成。WGはバックオフィス系社員を中心に構成しました。定例会は週1回以上の頻度で行いましたが、なにしろ時間が足りない。しかし、それが功を奏したのか、効率良く議論を進めることができました。期日までに終わらなければ、翌年の9月まで延長することになっていたかもしれません」(鈴木氏)

オフィス移転を成功させる物件選び