国会議事堂

オフィスマーケットⅣ 2006年9月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1881年(明治14年)に発せられた国会開設の勅論から構想50年、工期17年。1936年(昭和11年)に国会議事堂は今の永田町に誕生した。建築内部の美しさや、貴重な石材やクロスなどの保全について、管理部に話を聞いた。

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2階にある本会議が開かれる参議院議場。3階までの吹き抜けで天井にはからくさ模様を配したステン ドグラスの天窓が。正面中央には、開会式のときに天皇陛下が臨席されるお席が設けられている。

帝都の威信から民主の象徴へ――構想50年・工期17年の大建築

明治14年(1881)10月12日に発せられた国会開設の勅諭を受け、同19年2月、内閣に「臨時建築局」が設けられた。同局は、永田町・霞が関一帯に、議事堂始め諸官庁を集中させる壮大な計画の実現を使命とし、ドイツより建築家ウィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデを招聘すると共に、日本からも妻木頼黄、河合浩蔵、渡辺譲らの建築技師、大工、左官、煉瓦工など、総勢20人をドイツへ留学させた。"官庁集中計画"の概要は、その名残りをとどめる遺構として復元された旧司法省庁舎――現中央合同庁舎第6号館(法務省)――のサンクンプラザ石張りパターン等で偲ぶことができる。
現在見られる赤煉瓦の法務省からもわかるように、ベックマンが提出した"帝国議会議事堂"の当初設計案は壮麗なネオ・バロック様式だった。しかし、財政難から計画は縮小を余儀なくされ、本設計に至らぬまま、議事堂はひとまず木造の仮建築で間に合わせることとなる。ちなみに、ベックマンの後を引き継いだエンデの修正案は和風・中国風の混在する奇妙なものであり、これも建設計画を混乱させる一因となったようだ。明治23年11月24日(議会召集の前日)に落成した仮議事堂は、木造2階建の洋風建築。建物の面積は約8500平方メートル。この規模は、以降3次にわたる仮議事堂の建物に踏襲された。
さて、この仮議事堂は2ヶ月後、第1回議会の閉会を待たずに炎上・焼失する。漏電が原因とされたが、これに当時新興の電灯会社等が冤罪であると猛烈に抗議し、裁判沙汰にまでなったとのエピソードが残っている。議会は、貴族院を華族会館(旧鹿鳴館、後に帝国ホテルへ再移転)、衆議院を旧工部大学校に移して続行され、第2次の仮議事堂は昼夜兼行の突貫工事でわずか半年にして竣工した。第1次仮議事堂の玄関が中央1ヶ所であったのに対し、貴衆両院それぞれに専用玄関を備えたこの第2次仮議事堂は、短工期であったにもかかわらず34年の長きにわたって使用された。竣工当時の写真と後のそれとを比較すると、木造の壁面を真壁造(和風ハーフティンバー)とするなど、随時改修が加えられていたようである。
この間、正規の議事堂建築計画が模索されたが、設計をめぐって、官庁建築の重鎮・妻木頼黄と学界を主導する辰野金吾が対立するといった経緯もあり、ようやく計画が具体化したのは大正も半ばを過ぎた頃だった。大正7年(1918)、改めて設置された「臨時議院建築局」が建築意匠設計のコンペを行ない、118通の応募の中から宮内省技手・渡邊福三の"ギリシア様式ルネサンス風"案が1席を射止める。中央にそびえる塔屋のドームが印象的な姿であったが、実際には「臨時議院建築局」が大幅な修正を施した上で実施設計が進められた。
大正9年1月に地鎮祭を行ない"本議事堂"の建設が開始されたが、大正12年に関東大震災が起こる。

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17年の歳月をかけて完成した国会議事堂の全景。 正面には幅36.36メートルの大階段があり、2階の中央玄関に直接通じている。写真:参議院事務局提供

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建物本体は無傷だったものの、設計図・計算書・模型などが焼失し、復元に相当の日数を要したという。また、被災した第2次仮議事堂も修復作業中の大正14年9月に失火・全焼。直ちに第3次仮議事堂が起工され、工期3ヶ月足らずで完成。木造ではあるが、重厚なオーダーを連ねた特徴ある姿は"本議事堂"にも通じるデザイン・エッセンスが感じられるものだった。
震災を乗り越え、建材すべてを国産で賄うことを方針とした"本議事堂"が現在の永田町に完成したのは、昭和11(1936)年11月7日である。着工より実に17年近い歳月が流れていた。鉄骨鉄筋コンクリート造、花崗岩張、地上3階、一部4階。地下1階。塔屋部9階(65.45メートル)。建物の延面積約5万3500平方メートル。全体に新古典主義のニュアンスを湛えた様式建築で、欧米先進諸国の議事堂建築に遜色のない重量感は、まさに"帝都の威信"を余すところなく体現したものであったといえる。議事堂竣工の年に勃発した「二・二六事件」以後、日本は急速に軍国主義へと傾斜し、ドイツ、イタリア等と共に世界を相手とした戦火の渦中へと身を投じていく。

そして、大戦の勃発と終焉。日本の新たな歩みと共に"帝国議会議事堂"は、民主国家・日本の象徴"国会議事堂"として再スタートを切ることとなった。竣工後70年の時を経んとする今、この建築は、雄弁であるよりは寡黙であろうと決意しているかに見える。その内面の記憶は、むしろ私達個々の歴史認識にこそ委ねられているというべきなのだろう。

竣工前後 ―― 歴史と世相

明治19年(1886) 2月.内閣に「臨時建築局」が設置される。
( エンデ、ベックマン来日)。
明治23年(1890) 11月.第1次仮議事堂完成。第1回帝国議会召集。
12月.東京・横浜で電話交換開始。
大正8年(1919) 1月.帝国議会議事堂(本議事堂)の建設を開始。
6月.ベルサイユ条約調印(第一次世界大戦後の国際政治再編)
大正12年(1923) 9月.関東大震災。
(被害を受けた第2次仮議事堂は、同14年焼失)
昭和11年(1936) 2月.二・二六事件が勃発する。
11月.帝国議会議事堂(現・国会議事堂)が竣工する。
同月.日独防共協定締結。
建物概要
敷地面積 103.001㎡
建物面積 13,358㎡(延面積:53,466㎡ )
長さ(南北): 206.36m
奥行(東西): 88.63m
高さ(屋上): 20.91m
総重量 10万9000トン
鉄骨: 9810トン
鉄筋: 5522トン
石材: (花崗岩)2万5500トン
(大理石)2800トン
(日華石)106トン
セメント: 2万7446トン
砂、砂利: 7万8572㎥
木材: 24種類 4815㎥
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参議院
管理部営繕課長

渡辺泰啓氏

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管理部営繕課 課長補佐

笠間桂次氏

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中央塔真下の中央階段に通じる広間。2階から6階まで吹き抜けになっている。天井までの高さは32.62メートルあり、法隆寺の五重の塔がちょうど入る大きさだという。

国民の財産を未来へ――"半永久"の生命を支える維持・保全活動

大正年間に議事堂本建築の機運が高まった際、当時の一部議員から"帝冠併合式"――帝冠様式――のデザインを採用すべしとの建議が出されたという。帝冠様式とは、洋式の躯体に城郭や寺社のような和式建築の屋根・望楼を備えるというもので、大正の後半から昭和戦前にかなりの事例を見ることができる。東京の"軍人会館"(現・九段会館)や名古屋の愛知県庁舎等を思い浮かべてもらえばよい。
議事堂が国粋的な帝冠様式を採らずに、遅れてきたネオ・クラシシズム建築――欧米新古典主義の最盛期は18世紀中葉~19世紀初めだった――として現われたことは、この建物にとって幸運なことであった。今、年間70万人を数えるという議事堂参観者の胸に、戦前・戦中の暗い翳がきざすことは恐らく少ないだろう。

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中央広間の窓にはめ込まれたステンドグラス。

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天皇陛下の御休所。この部屋の造作は檜を用い、本漆塗りになっている。

新古典主義の派生として登場した四角錐(ピラミッド形)の中央塔屋は、政治的に中立・公正たるべき議事堂の意匠としてまことに相応しく感じられる。

「建設当時は"国威発揚"との意識が当然あったと思われますが、それ以前に、議事堂の建物には、日本全国から材料を集め、全国民の財産として建てたというポリシーが生きていると思います。その本来的な性格は、戦後に民主国家となってから、いっそう明確に表われているのではないでしょうか」

取材に協力していただいた参議院の渡辺氏・笠間氏は、議事堂の建築的・歴史的な価値以上に、この建物の存在自体が"国民の財産"であることを強調する。日本を代表する石である花崗岩――1階部分は山口県黒髪島の黒髪石、2階以上は広島県倉橋島の尾立石を使用――を始め、内装の至る所に全国各地から集めた37種類もの大理石が使用されている。中央広間の床を彩る花模様も、14種類・160万個の石材から成る。これら石材は、現在すでに入手不可能となったものも多い。また、前庭には、国会開設80周年を記念して寄贈された全国都道府県の樹が植えられ、それぞれ季節ごとに華麗な花を咲き競う。ちなみに、植栽の手入れは衆参両院が独立して別々に行なっている。

「建物はほぼ左右対称のシンメトリーですが、内部組織的には、向かって右手側に位置する参議院が中央広間及び御休所、塔屋を含むセンター部分を併せて管理しています。この数年の間に中央塔の洗浄や屋根の改修を行ないました。ちなみに参議院が所管しているすべての建物の施設費は年間で20億円前後となっています」

大規模な改修は衆参両院の協議により実施されることになるが、日常的なメンテナンスは、それぞれが独立して担当している。総重量10万9000トンというSRC石張りの躯体は半永久的な堅牢性を誇るものの、内装のステンドグラス、漆塗りの木材や壁布のクロス等、破損した場合に現在の技術では修復不能のものも多いという。国会閉会中も委員会室は随時使用されるし、常時3000名を超える職員が勤務する"生きた建築"であるだけに、維持・保全の苦労は並々ならぬものと想像される。また、内外観を保全した上で、同時に、空調や諸機能にわたる居住性の向上、防災面の強化、IT化、バリアフリー化といった多くの課題にも対応していく必要がある。

「可能な限り現状保存を心掛けていますが、已むを得ない場合は代替品による修復も検討します。この建物を、本来の用途に供しつつ次代に伝えていくことが、私達の使命なのですから」

建築作品としての見応えは、掲載した写真が伝える通りである。さらに、青少年を始めとする国民一人ひとりに政治意識を高めてもらうため、史料室の整備や参観ロビーの新設など、新たな試みも行なっている。

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中央階段(左)中央部に真紅の絨毯が敷かれた中央階段。天井は筒形になっており、左右の窓にはステンドグラスがはめられている。

御休所前広間(右)天井は筒形になっており、ステンドグラスを入れた天窓が設けられている。御休所入口は、1つの大理石を彫り抜いている。

未見の方はもちろん、過去に訪れたことのある方にも、ぜひ自らの"財産"を再訪することをお勧めしたい。今年、古稀の齢を数える議事堂であるが、その果たすべき役割はさらに重いといえる。本会議場を見下ろすとき、広間に立って吹抜けの天井を見上げるとき、参観者は必ずや厳粛な想いにとらわれることだろう。
ところで、取材を通してもう一つ興味深い話を聞くことができた。中央広間には、春・夏・秋・冬をイメージした4点の壁画があるのだが、これは実をいうと、本来はモザイクを計画しながら仮に油絵として"保留"した状態なのだそうだ。他にもそうした部分があり、その意味では議事堂は未だ"未完成"の建築なのだという。同じ広間にある3体の銅像と空席である4つめの台座もまた、政治の"未完と永遠"を象徴するという説がある。いつの日か、議事堂の、そして日本の政治の"完成"を見る日を私達は期待すべきなのだろうか。それとも、このままに置くべきなのだろうか――。

文:歴史作家 吉田茂
写真:建築写真家 増田彰久
取材・撮影協力:参議院事務局

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