横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)

オフィスマーケットⅡ 2007年3月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

江戸末期から貿易港として重要拠点となった横浜。1918年の開港50周年に合わせて建設されたのが旧「開港記念横浜会館」だった。関東大震災では内部が全焼、屋根焼失という被害を出したが、復旧工事で姿を取り戻した。近年実施された復元・改修工事を振り返りながら、関係者に話を聞く。

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ジャックの愛称で呼ばれる横浜市開港記念会館全景

"ジャック"の肖像――港町の発展を見つめ続けた赤煉瓦建築

安政5年(1858)、日本と欧米5ヶ国との間に修交通商条約が締結されると、開港場の一つとなった横浜は貿易港としてにわかに活況を呈することとなった。現在の神奈川県庁本館の地に運上所(税関)が建設され、その斜向かいには当時の福井藩が生糸販売等のために出店した「石川屋」(店主は岡倉天心の父)という店舗があったが、明治7年(1874)、その跡地に県令・陸奥宗光の提案による"町会所"が建てられた。"町会所"と言っても江戸時代のそれとは様相を異にし、木骨石造2階建の建物は開化の象徴たる3層の時計塔を備え、欧米のタウン・ホールの機能を持った多目的建築であった。設計は、築地ホテル館や新橋・横浜の両駅舎なども手がけたR・P・ブリジェンス。施工は清水喜助(二代)率いる清水組(現・清水建設)が担当した。後に"横浜会館"と名付けられた町会所では、横浜商法会議所(現・商工会議所)の発会式、第1回衆議院議員選挙が行なわれ、仮県庁として使用されるなど盛んに活用されたが、明治初年の建築だけに老朽化が目立ち、明治39年12月、とうとう近隣からの失火で焼失する運命をたどる。
明治42年、同じ地に"横浜開港50周年記念事業"として新たな公会堂施設を建設しようとの動きが本格化し、大正2年(1913)になって設計案のコンペが実施された。1席を射止めたのは俊英の東京市技師・福田重義。市民に愛された旧町会所の時計台イメージを継承した原案を、横浜市技師の山田七五郎、矢代貞助、佐藤四郎といった錚々たる技術陣がさらに洗練させ、建物は大正6年(1917)6月に竣工、翌7月1日の開港記念日に合わせて"開港記念横浜会館"として華やかにオープンした。基礎工事を除く地上部の施工に当たったのは、町会所と同じ清水組である。鉄骨煉瓦造、地上2階地下1階。赤煉瓦の外観には随所に花崗岩が用いられて、建築様式としてはいわゆる"辰野式フリー・クラシック"の系統に分類される。しかし、地上高約35メートルの時計塔、スレート屋根に複数の大小ドームを配した構成は、多彩なスカイラインを形成しつつ、絶妙のバランスを保持していた。明治期煉瓦建築から抜け出した伸びやかさを感じさせ、日本における様式建築の到達点を見事に示すものであったといえる。
内部の目玉は何といっても開館時1200名の収容が可能だったホール部分で、ここのステージではパブロバ姉妹によるバレエ公演、ジンバリスト、ミッシャ・エルマンらのヴァイオリン演奏、ゴブドスキーのピアノ演奏などを始め、日本が生んだ世界的オペラ歌手・三浦環、藤原義江らの熱唱も聴かれた。

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講演会、催事も連日の盛況で、まさに会館は"国際都市・ヨコハマ"の文化拠点として大きな役割を果たす存在であった。
だが、開館わずか6年の大正12年9月1日、関東大震災により横浜は壊滅的な打撃を受ける。"開港記念横浜会館"も倒壊は免れたものの内部は全焼、美しかった屋根も焼失して飴のように歪んだ鉄骨が剥き出しになる惨状を呈した。市が港湾や鉄道、橋梁、産業施設等の復興を優先させたため、会館は大正15年まで"残骸"のまま放置され、昭和2年(1927)6月の復旧工事完了後もドームを失ったままの姿となり、外・内装とも創建時より簡素化されて長い昭和の時代を歩むこととなる。

とはいえ、市民がこの建物に注ぐ愛情はいささかも薄れることはなかった。初のトーキー映画上映などが話題となる中、誰がつけたか、会館の時計塔はいつのまにか"ジャック"の愛称で呼ばれるようになり、神奈川県庁本館の"キング"(昭和3年竣工)、横浜税関の"クイーン"(昭和9年竣工)と並ぶ、横浜のシンボルとして親しまれてきた。スマートできりりとした建物のシルエットに"ジャック"の名はまこと相応しい。なお、『霧笛と共に 横浜市開港記念会館史』は、これらの愛称が日米開戦以前の昭和10年代から使われていたことを証言している。

竣工前後 ―― 歴史と世相

明治39年(1906) 12月、横浜会館(旧町会所)が近隣の失火により消失する。
大正2年(1913) 開港記念50周年記念事業として設計案募集。
大正3年(1914) 7月、第一次世界大戦が勃発する(~6年11月)。
9月、開港記念会館、着工。
大正6年(1918) 6月、開港記念横浜会館、竣工。(7月開館)。
大正12年(1923) 9月、関東大震災により被災(屋根、ドーム、内部を焼失)。
昭和2年(1927) 6月、復旧工事完了、再開。
金融恐慌~世界恐慌
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横浜市開港記念会館
館長代行

杉山吉男氏

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現在も公会堂として使用されている講堂全景

ドーム復元と補修工事――発見された創建時の設計図

旧"開港記念横浜会館"の震災復旧工事は、創建時の実地設計を行った山田七五郎の指導で、鳥海他郎・木村龍夫の両技師が担当した。鉄骨煉瓦造の構造体に鉄筋コンクリートによる補強を施し、陸屋根も鉄筋コンクリートで新たに架せられた。煉瓦建築の構造補強例としては最初期のものであり、これによって変更された室内は、明治期の組構造系の意匠から鉄骨・鉄筋コンクリート系の意匠への転換を見る上での指標となりうる意義を備えている。

「公会堂の天井ヴォールトを始め、補強のためにかなりの改変がなされました。しかし、2階公会堂前ホールのアーチなど、創建時にはなかった意匠が"震災復旧"という特殊な時期のインテリアを伝えており、これもまたこの建物の有する大きな価値に繋がっていると思います」

杉山氏がそう語る通り、建物内部の意匠は震災復旧時のデザインでほぼ統一されており、その特殊性も建物外観の意匠に加えて、重要文化財指定の大きな理由の一つとなった。現在、建物の各所に創建時の内部写真がパネル展示されているが、現状と過去のそれを比較することで、日本の近代建築がたどった変遷の過程を再確認できる貴重な空間といえる。

「また、やむをえない部分は別として、当初の意匠を尊重して復元されたものも多い。ペリー提督の乗艦ポーハタン号を描いたステンドグラスなども、震災で失われた後、忠実に再現されたと聞いています」

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階段室に飾られているペリー提督の乗艦ポーハタン号を描いたステンドグラス

第二次大戦後、会館は昭和33年(1958)まで異例の長きにわたって米軍の接収を受けたが、"メモリアル・ホール"と愛称されて内部の改変などはほとんどなされなかった。その理由として、ステンドグラスに描かれた船の星条旗を見た米軍将校が心を動かされ、大切に扱うようにしたからだという"伝説"が残っている。別に、女性将校宿舎の用途にあてられたために丁寧に使用されたとの説もあるが、前者を信じるならば、この建物が新たな日米友好の懸け橋として一役買ったということになり、興味深い。

さて、接収解除後、建物は現名称の"横浜市開港記念会館"として使用再開されたが、メンテナンス面では部分修復にとどまっていた。しかし、昭和60年代になって横浜市は、市政100周年記念事業の一環として外観復元を目的とした大がかりな調査に乗り出す。きっかけは、震災復旧にあたった木村技師の家族から市に寄贈された、創建時の設計図(38枚)と震災復旧時の図面(8枚)である。

「設計図(いずれも青写真)は震災時に焼失したと思われていたのですが、木村技師の次女・城千代子さんが保管していたことがわかったのです。市政100周年・開港130年という稀有なタイミングで、それが発見された。そこから屋根・ドームの外観復元という事業が現実のものとして立ち上がりました」

故・村松貞次郎氏(東京大学名誉教授)を委員長とする"ドーム復元調査委員会"の提言により、昭和63年から開始された復元改修工事は平成元年(1989)6月に完了。同年9月に会館は重要文化財の指定を受けた。復元にあたっては、図面と竣工時の古写真を比較検討し、建物の現状調査に基づく状態把握を行って、慎重な検討が進められた。これにより、天然スレートの屋根、華やかな大小のドーム――"ジャックの帽子"――が、創建時の姿そのままに甦ったのである。

「さらに、平成11年から12年にかけて、建物内外の老朽化対策を主眼とした改修工事を行い、現在に至っています。剥落した漆喰を調査したところ、6層に塗り重ねるといった高度な技術が注ぎ込まれていたことが判明し、多くの貴重な建築史的知見が得られたのは大きな収穫でした」

同時に、平成9年に制定された「横浜市福祉のまちづくり条例」に基づき、エレベーター新設、トイレの新設・改修といった公会堂としての機能整備も実地された。現在、各種の催事・会合などの利用申込みは引きも切らず、いずれも盛況だという。中之島の大阪市中央公会堂と並び称される"トランプの三塔"の一つとして、誇り高き"ジャック"は、なお長く活用されうべき建築として大きな存在感を示している。

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現在資料室となっている旧貴賓室の扉とステンドグラス

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2階から見下ろした講堂内部

文:歴史作家 吉田茂
写真:建築写真家 増田彰久

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