- 自社ビルから賃貸ビルに移転して統合
業態の拡大やブランドの多様化により首都圏11カ所(+広報部門)に分散していた。四谷の本社ビルは築40年前後で事業継続計画の観点から建て替えを検討。それを機会に統合移転を進めることを決意する。 - 「面積はほぼ半減」という厳しい条件
オフィス仲介会社の協力を得て、新オフィスは浜松町駅に直近の汐留ビルディングに決定。その後、オフィスづくりの専門会社と一緒にプロジェクトを進めることとなる。総面積は47%削減に。 - 1年間かけたオフィスづくり
徹底して社内の調査を行い、ワークスタイルの分析やスペース利用の問題点の抽出などを進める。次に社員参加型のワーキンググループを立ち上げ、どんなオフィスにしたいか意見を出してもらう。これにより新オフィスのコンセプトを固めていくとともに、社内の情報共有や移転への意志の統一を図っていく。 - 統合の目的はコミュニケーション
分散していたオフィスの最大の問題は社内のコミュニケーション不足。したがって新オフィスでは"人と人の交流"を最優先に考えたデザインプランをまとめた。その結果、さまざまな出会いの場から派生したインフォーマルコミュニケーションが活発に。 - 「内部専用階段」だけでなく「内部専用エレベーター」も
コミュニケーション促進と商品やサンプルの移動用のため占有スペース内に内部専用階段と内部専用エレベーターを新設。建築中に交渉したため大きな工事の必要なく設置ができた。上下フロアの移動が楽になるだけでなく、その周辺は貴重な交流スペースとなっている。
社員の通勤を考えた立地を考慮して候補ビル探しを進める。
日本を代表する大手アパレルメーカーの三陽商会。レディスからメンズ、アクセサリーまでの多くのブランドと共に、長く本社を置いていた四谷(東京都新宿区本塩町)のイメージを持つ人も多いはずだ。
「創業の地は千代田区の神田でした。レインコートを主力としていた会社から総合アパレルメーカーに成長していく過程の中で1969年に四谷に自社ビルを建設。以来、40年近くにわたって本社を置いていました。事業の拡大に伴って、四谷エリアに多くのオフィスを所有または借り、「SANYO村」みたいになっていましたから、当社と四谷のイメージを結びつける方は多いと思います」
そう語るのは、今回の移転プロジェクトのリーダーを務めた人事総務本部総務部長の髙﨑三千夫氏だ。
しかし三陽商会の事業拠点は四谷だけに留まらず、1981年には東京都江東区潮見にも商品センター、さらに1990年には同センター隣地に事務棟を完成させている。
「潮見のビルにも全従業員数の約4分の1にあたる500人が勤務していて、主にメンズの事業部門が置かれていました」(髙﨑氏)
分散による弊害は多かった。
「例えば同じブランドでもレディスとメンズの担当者では四谷と潮見に分かれていて簡単に交流できないとか、四谷でも複数のオフィスがあるため、同じ会社の社員なのにほとんど顔を合わせたことのない人がたくさんいるといった状態でした。社内のコミュニケーションを促進しようにも解決策はなく、半分、諦めるしかなかったのです」(髙﨑氏)
ところが、耐震問題などから四谷の本社ビルの建て替えが決まったことで、事態は一気に動き出す。
「新しく本社ビルを建て替えることを検討することを含め、いったん本社オフィスはどこか別のビルに移転・統合させてはどうかというアイデアが出たのです。そこで、長年のお付き合いのある三幸エステートさんに相談したところ、浜松町駅の目の前に大規模ビルが建設されるという情報をいち早くいただき、絶好のチャンスを得ることができました」(髙﨑氏)
移転を考え始めてから何棟ものビルを調査したものの、立地や広さなどの問題で希望に叶うものは多くはない。その点、建設予定の汐留ビルディングは申し分のない条件だった。
「四谷に長くいたことから社員たちの居住地は新宿や池袋からの鉄道沿線も多く、また統合の対象と考えていた潮見ビルに務める社員は東京の東側や神奈川、千葉方面に住んでいるケースが多い。できるだけ通勤の負担が増えないような場所を全員の住所データから専用ソフトなどでシミュレーションした結果、浜松町であれば通勤時間、交通費などの問題はおおむね解決されるという結論に至り、オフィス移転のプロジェクトが本格的に進むことになったのです」(髙﨑氏)