都市の記憶

~歴史を継承する建物~

霞が関ビルディング 後編

オフィスマーケットⅣ 2008年9月号掲載

※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

田中順一郎氏

三井不動産株式会社
常任相談役

田中順一郎氏

 

民力が動かした法制 ――若き担当者の果敢なる挑戦

霞が関地区の再開発計画は、当初、旧東京倶楽部ビルの建て替えという形でスタートした。土地の最有効活用という観点からすれば、約6,400平方メートルの敷地一杯に建物を建てることが望ましい。当時の法制下で認められた高さ31メートルを遵守し、9階建のビルとすることを前提にプロジェクトは進行していた。

「ところが、いざ着工しようという昭和36年(1961)10月、政府から着工延期の勧告が出されたのです。国際収支の悪化による金融引締対策の余波でした。つまり、昨今の中国と同じような状況で、景気は良いのだが外貨不足。外貨の流出を防ぐために景気抑制策が採られたということですね」

こう語るのは、プロジェクトで事業計画の立案に携わっていた田中順一郎氏である。その頃、氏は畑違いの人事部門から移って来たばかりで、建築のことについてはほとんど知識がなかったという。急激な景気拡大に外貨準備金が追いつかず、即効策として政府は国内の設備投資を抑えようとしたわけだが、これによって生じた時間的猶予が建築計画の抜本的見直しにつながったのである。

「まあ、計画が延期になったのが結果的には幸いしたと言えるでしょう。それを機会に私も本格的に建築の勉強を始め、多くの先輩、専門家の方々と共に研究を進める中で、敷地一杯にベタな建物を建てるのは、収益優先とはいえ、時代に逆行しているのではないかとの考え方を強くしていったのです」

周辺の環境を考え、活性化させる真の解答が模索されるうち、三井不動産は東京倶楽部に隣接する霞会館(旧華族会館)所有地における共同事業提案の機会を得た。合計で約1万6300平方メートルという街区全体のグランドデザインの策定へと、プロジェクトは一挙にスケールアップすることとなった。
9階建が限度とされた計画は、翌年、素案として16階建へと発展したが、これは東京都建築審査会の予備審査を通過しなかった。しかし、都市再開発の理想に燃える若き田中氏らは、決してあきらめることなく、武藤清氏(東京大学教授)らの指導の下に“霞が関三井ビル高層化委員会”を設立、建設省(現国土交通省)など関係省庁との折衝を粘り強く継続していった。

「当時の私は役職もない一介の若者です。それでも、役所の方々を説得する為に幾度もどこへでも足を運んだ。模型を抱えて先方に説明したこともあります。その間にも、武藤先生や都市計画の高山英華先生、一般計画では吉武泰水先生といった方々に教えていただきながら“日本の超高層”への夢を膨らませていきました。高山先生の“こんなに敷地があるのだから、余白を生かさなければ”という言葉が印象に残っています」

“余白”とは、人々の活動する環境全体に配慮するが故の発想である。“超高層と公園スペース”、“民”と“学”により具体性を帯びた計画に“官”も共感し、一つの潮流を生むに至った。日本建築学会が建築大臣の諮問に対し、建築物の高さ制限撤廃と容積制度の新設を答申。これを受けて1963年7月には建築基準法が一部改正され、64年8月には都市計画法に基づいて、霞が関三丁目地区は初の“特定街区”に指定された。ネックとされていた道路問題についても、北側に位置する会計検査院との敷地交換(一部を会計検査院増築のスペースとして提供)によって、街区全体の東側に幅1.5メートルの歩道と同7.0メートルの車道を確保することができた。

「容積率910%の36階建案が完成したのは64年の11月。何しろ前例のない建物ですから、耐震・防災・住居環境に至るまで綿蜜な設計が必要でした」

地震国・日本において“超高層”を実現させるためには、従来の剛構造に代わる柔構造による設計が不可欠だった。

また、柔構造の特性が真に生きるのは30階建以上の構築物であるという理論の裏付けがあってこその36階建だった。
こうして霞が関ビルディングは1968年4月の竣工を迎えるわけだが、三井不動産には、収益の確保という更なる課題が残されていた。

「テナント 収入と経費を計算すると最初の3~4年はどう考えても赤字。そこで、36階の機械室の周囲を展望回路として公開しました。250円の見学料をいただいたのですが、これが見事に当たって一般の方々が長蛇の列をつくってくださった。おかげで予想よりずっと早く黒字化への道が開けました」

そういって微笑む田中氏であるが、建築史にエポックをもたらし、後の高層都市・東京の原点を形作った霞が関ビルを誕生させたチャレンジ精神に、後進たる者たちが学ぶべき点はあまりにも多い。

「霞が関の事例に止まらず、行政が規制緩和を行うことで民間のヴァイタリティが解き放たれ、経済活性化の原動力になるのです。民間だけでなく、「官」も「学」も、時代の変化を感じ取り、協働してくれた結果、高度な土地利用が実現した。建物の命は、利便・安全・品格・健康。これらを兼ね備えた建築は、周囲にも環境的な影響を強く与えます。私たちはこれらを地域の再生と価値創造の源泉と考えています。
竣工後40周年を迎えた霞が関ビルは、一部の改修・リニューアルを経て、なお第一級の価値を有する存在である。自らの信念を語る田中氏の言葉もまた、色褪せず、これからの都市開発の指標となる示唆に富むものであった。

高々と上げられていくH型鋼のはり(上棟式)

高々と上げられていくH型鋼のはり(上棟式)

当時、36階に設けられていた展望台

当時、36階に設けられていた展望台

霞が関ビル年表と世相

霞が関ビル年表と世相

新橋方面から(1968年と2008年)

新橋方面から_1968年

新橋方面から_2008年

1階ロビー(1988年と2001年)

1階ロビー_1988年

1階ロビー_2001年

2階ロビー(1999年と2001年)

2階ロビー_1999年

2階ロビー_2001年

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