三菱一号館

オフィスマーケットⅡ 2009年3月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

丸の内の象徴的な建物である「三菱一号館」は1894年に建設された文字通り日本最初の近代建築。しかし周辺オフィスの急速な発展に伴い、1968年に解体された。その象徴が40年後の2010年に赤煉瓦の壁を持つ当時に姿でよみがえった。歴史・文化と最先端技術が融合した建物復元の"想い"を伺った。

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理想の正統たる継承――復元成ったオフィス街の象徴

その建物の名には二つの大きな意味が込められていた。
1894(明治27)年に竣工した「三菱一号館」は、現在に至るまで発展を続ける三菱グループの中核拠点であると同時に、わが国最初のオフィス街となる東京・丸の内に建った文字通り最初の近代建築作品だったからである。
地上3階地下1階(軒高約15メートル)、延床面積約6000平方メートル。尖塔式屋根を連ねたクイーン・アン・スタイルの外観。L字形の建物は堅牢な総赤煉瓦積で造られ、フロアの間を貫く間仕切り壁と帯鉄を施すことで、後の関東大震災にも耐え抜く耐震性・防火性を備えていた。
設計に当たったイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは、辰野金吾・曾禰達蔵ら錚々たる後進を育て上げた日本建築界の恩人である。そしてこの建物には、"官"に対する"民"への期待、真に国家百年の計を担うのは民間の活力にほかならないという、コンドルの"理想"が具現していたと考えられる。その"理想"は、彼の弟子達によって脈々と継承され、後に周辺は「一丁倫敦」と通称されるわが国随一のオフィス街へと発展した。文明開化時代の和洋折衷・擬洋風といった19世紀欧米社会の模倣から、日本の都市が本格的な20世紀社会へと脱皮していく姿がそこにあった。
だが、これら赤煉瓦のオフィスビル群は、第二次世界大戦後の高度成長期に次々と建て替えられ、姿を消す。「三菱一号館」も、周辺の地下工事による耐震性への懸念、急増するオフィス・スペース需要への対応といった事情から、1968(昭和43)年に惜しまれつつ解体された。折しも同年には日本初の超高層オフィスビル「霞が関ビル」が落成し、日本の都市建設が新たな局面を迎えようとしていた時代であった。
それから40年の時が流れ、私たちは、再開発の槌音響く丸の内の地に再び「三菱一号館」の勇姿を目の当たりにすることとなった。都市の中心部において、明治期の赤煉瓦建築を同じ場所・同じ姿で復元する――無論、初めての試みであり、英断である。

「21世紀を迎えて、東京が世界をリードする都市空間として再生するため、この建物の復元はぜひとも必要な"想い"の継承、正にその象徴なのです」

プロジェクトに携わった人々は異口同音にそう語る。学識者らによる"復元検討委員会"との慎重な議論、一企業グループを超えた街区活性化への熱い思い、それらが結晶して最新鋭の高層ビルと調和するかたちで美しい景観がここに復活したのである。
その背景には、破棄されずに残っていた多くの図面があった。さらに、かつての解体時に「記念品」として関係者の一人が持ち帰った赤煉瓦の一片が大切に保存されていた。こうした素材資料を基に、総数200万以上におよぶ煉瓦は一つずつ丁寧に焼かれ、保存部材の一部も安全性を確認した上で再利用されているという。石材、屋根材等も、可能な限り竣工時に近いものを再現した。もちろん現代の基準をクリアするため、適切な補強・免震構造が採用されていることはいうまでもない。
かくして、昭和9年竣工の「明治生命館」(重要文化財)、大正3年の竣工時に復元される「東京駅」と併せて、平成の世に生を享けた高層ビル群の中に、明治・大正・昭和三世代の"先輩"たちが揃って静かに佇む壮観が現出することとなった。

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三菱地所株式会社 執行役員
ビルアセット開発部長

合場直人氏

首都再生へ向ける想い――将来を見据えた壮大な構想

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建物2階の「三菱一号館美術館」展示室。2010年4月開館の予定だ。

約100棟の建物が集中し、24万人が勤務する東京・丸の内。この地域を対象として三菱地所が打ち出したのは、長期的な視野に立つ都市再生計画だった。オフィス街に多くの訪問客を呼び込む"新生・丸ビル"からスタートした第1ステージに続き、第2ステージでは、まず「丸の内パークビルディング」の新築、「三菱一号館」の新築復元が実現した。高層棟「丸の内パークビルディング」は地上34階(塔屋4階)地下4階、延床面積は約19万9000平方メートル。低層の「三菱一号館」と中庭スペースの「一号館広場」を擁して、なお、六本木ヒルズ等と同クラスのフロアスペースを確保している。また、創建当時の役割を「丸の内パークビル」に譲った赤煉瓦棟は「三菱一号館美術館」(オープン記念展には『マネとモダン・パリ展』を予定)として2010年4月より第二の人生をスタートする予定である。

「ともすれば経済性優先に陥りがちなオフィス街に、"歴史・文化"の息吹を復活させることが大切と考えました。また、"環境共生"も、当初から第2ステージの大きなテーマの一つ。たとえば丸の内パークビルには一号館広場に面した三本の丸柱があり、これは建築上必要不可欠な構造体であるわけなのですが、それをきちんと"緑化"して都市空間の中に自然を取り込もうという試みもその一つです」

こう語るのは、このプロジェクトで中心的な役割を担ってきた三菱地所の合場直人氏である。
「三菱一号館」の建物はすでにほぼ完成しているが、美術館という用途に沿い、内部環境が安定する来春を待って正式オープンの運びとなる。赤煉瓦棟と高層棟を結ぶ一号館広場には都心に貴重な緑の空間が造営される計画だが、そこにはコンドルが愛してやまなかった英国産の薔薇が咲き誇るはずだ。同館の主要な所蔵品が、初代建物の竣工と同時代に活躍したロートレックの世界的に重要なコレクションであることも感慨深い。広場にそびえる"三本の柱"は、図らずも"歴史・文化・環境"というプロジェクト・テーマを具現しているかのようでもある。

「つい一昔以前には、首都機能を移転・分散することで東京の密集を緩和させ、地方の活性化に結びつけようという議論が主流でした。しかし、そこに具体的なビジョンを確立することができなかったために、却って中心部の不用意な弱体化を招いてしまったともいえます。私たちは、そうした経験を反省材料としつつ、もっと大局的な都市再生の計画を検討してきました。中央も地方も、都市にはそれぞれの個性があり、担うべき機能もそれぞれに異なるべきである――いわば"分散"ではなく"分担"という発想ですね」

今回のプロジェクトにおいても、商都・有楽町~銀座、金融街たる大手町一帯、そして経済全般のセンター機能を担う丸の内......それぞれの個性を生かし、総合した新しい街づくりが今着々と進んでいる。
たとえば、商業地域では駅周辺のインフラ強化による集客能力の向上が急務だ。また、医療・教育機関等の誘致・育成を含む国際的な金融センター構想がある。経済の中心としての丸の内も特許関連や法律・会計事務機関など新時代対応の機能を充実させた街区へと再生させる。これらはいずれも"東京"という都市の本質を捉え直し、その核心を再構築するための挑戦にほかならない。一極集中ではなく機能の分担、そして効率の追求から一歩進んだ都市空間の深化・再生へ。長く混沌を余儀なくされてきた巨大都市は、確かに今大きく変貌を遂げつつある。

「"拡がりと深まり"――もちろん、時代と環境を考慮した上でのことですが、すべての根本にあるのは"誰にも真似のできないものをつくろう"という私たちの思い・情熱なんです。その意味からも、此のタイミングでの三菱一号館復元は、象徴的であると同時に意味深い取り組みだったと考えています」

ちなみに「三菱一号館」内部におけるかつての銀行営業場スペースには、吹き抜けの開放的な空間そのままにモダンなカフェが設けられるという。そこに坐し、静かに日本が経験してきた百有余年の歴史に思いを馳せてみるのもよいだろう。その歩みは、今思えば余りに性急過ぎたのかもしれない。現在の日本の目標とすべきが、目先の功利を追い求めることにないことは明らかだ。
そう。新たなわれわれの"理想"とは、遠い将来へとつながる長期的・究極的な価値のたゆまぬ創造にこそ存するのである。

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復元された構造煉瓦(右)と化粧煉瓦(左)。今回のプロジェクトのために230万個の煉瓦が造られた。

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1階ミュージアムショップ。当時は、漆喰で仕上げていたが、この部屋ではあえて煉瓦を見せている。 ちなみに窓ガラスは、新丸ビルが竣工当時使用していたものを再利用している。

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煉瓦積み作業の風景。職人の経験年数がヘルメットの色でわかるようにした。 経験の長い職人は、人の目に触れる機会が多い外壁を担当している。

完成予想図と現状

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一階カフェ 当時の銀行カウンターをカフェに。正面入口から入ったすぐのところに設けられている。

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一号館広場 中庭内の三本の柱は、緑化して都市空間の中に自然を取り込むという試みを計画している。

文:歴史作家 吉田 茂

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