赤レンガ東京駅復元計画

オフィスマーケット 2002年7月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1914年に竣工された煉瓦造りの旧東京駅舎「東京中央停車場」は、戦後すぐに修復されたがその老朽化が問題になっている。2002年に動き出した周辺の地域再開発を含む一大プロジェクトの全容を紹介する。

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大正3年 竣工当時の駅舎正面

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現在の駅舎

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保存復元の計画概要

丸の内・八重洲駅前街区再開発―― 動き出す空前絶後のプロジェクト

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東京駅を中心とした八重洲の開発計画案

平成14年(2002)2月、JR東日本は「東京駅及び周辺の整備計画について」と題するプレス・リリースを発表した。ここには"東京駅丸の内駅舎を創建当時の姿に復元"することが明記されている。駅舎の保全・復元計画についてはJRと東京都の間ですでに合意がなされ、8回にわたる「東京駅周辺の再生整備に関する研究委員会/丸の内駅舎保存・復元分科会」(座長/岡田恒男・芝浦工大教授)で方法が検討されてきたが、それが一応の結論を見たため、今後は具体的な現況調査・実施設計段階へと進むことになる。

現況と異なる「創建当時」の東京駅丸の内駅舎を記憶する人はすでに少数派だろう。関東大震災ではほとんど被害を受けなかった東京駅丸の内駅舎だが、戦禍を免れることはかなわず、昭和20年(1945)5月の東京大空襲で煉瓦の外壁などを残して焼失した。現在の駅舎は、さまざまな改変を施して昭和22年に応急的に修復したものだ。しかし、それでもなお、日本最大の赤煉瓦駅舎として毅然たる風格を備えて存在している。駅舎本来の堅牢さとともに、建築および修復にあたった旧国鉄スタッフの技術水準の高さには敬服するばかりである。
しかし、開業から数えて88年、戦後の修復から数えても55年という節目を迎え、駅舎の老朽化は避けられぬものとなった。今、東京駅は新たな歴史を刻むべく、3度目の着工を静かに待っている。

「創建当時に施工された松杭は、今日の基準に基づく3階部分の復元においては耐力不足となること、復元駅舎の利活用する上で、地下空間を必要とすることからアンダービニング工法により新設の杭に受け替えかつ地下構造体の施工を行うことになります。煉瓦の壁面など現存する部分は可能な限り"保存"し、外観を復元して耐久性を高めるという作業自体は技術的に十分可能。ただ、現役の駅舎であるという特殊な条件のもと、安全・迅速に工事を進めることが大きな課題となります」

今回の"復元"工事も、JR東日本の技術スタッフが総力を結集して実施する。担当者によると、駅舎の保存・復元を含む丸の内・八重洲駅前整備工事の完了予定時期は2010年度末。しかし、一日の乗降客が丸の内側だけで36万7000人(全体では81万2000人)という東京駅を丸ごと変身させるという巨大プロジェクトだけに、工事計画は慎重の上にも慎重を期さなければならない。
プロジェクトの全貌は、丸の内駅舎復元のみならず、八重洲側への30階規模ツインタワー建設(共同事業)、丸の内・八重洲両駅前広場の総合的な再整備にまで及ぶ。

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行幸通りより見た丸の内広場整備イメージ

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言い換えれば、丸の内駅舎敷地の余剰容積を八重洲側へ移転するという手法によって、3階建駅舎の復元も初めて可能になったといえる。約500億円といわれる費用を一私企業が負担して復元するのは不可能だ。共同事業による八重洲再開発という両輪がそろわなければ、現状の赤煉瓦駅舎保存さえも危ぶまれるところだった。
八重洲側では現在の鉄道会館ビルを撤去する代わりに、南北に超高層ビルを建設してオフィス・商業施設を誘致する。
両駅前は交通・景観に配慮して開放感のある広場へ。そして、復元丸の内駅舎が変貌した街区の新たなシンボルとして画竜点睛を添える。
大正3年の開業時、時の総理大臣・大隈重信は「東京駅はあたかも光線を発する太陽」であると演説したという。明治日本の掉尾を飾る一大国家プロジェクトだった"中央停車場"の建設――そして今、あらゆる意味で画期的な多数の試みとともに新世紀のプロジェクトが実行に移されようとしている。そこに現出するかつてない都市空間を目の当たりにする喜びは、独り百歳を超えんとする駅舎のみの感慨ではないだろう。

着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

明治36年

(1903)

  • 12月 ライト兄弟が複葉機による初飛行に成功する。
  • この年、ドイツ人建築家バルツァーが「中央停車場」設計案を提出する。

明治38年

(1905)

  • 9月 ポーツマス条約が調印され、日露戦争が終結する。
  • この頃、工学博士・辰野金吾が「中央停車場」の設計を引き継ぐ。

明治41年

(1908)

  • 12月 鉄道院官制が公布され後藤新平が総裁に就任する。
  • この年「東京中央停車場」の建設工事が始まる。

大正3年

(1914)

  • 3月 「東京中央停車場」が完成する。
  • 7月 第一次世界大戦勃発(8月、日本参戦)。
  • 8月 パナマ運河が開通する。
  • 12月 「東京中央停車場」を「東京駅」と改称して開業する。

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「東京駅周辺の再生整備事業に関する研究委員会」委員
東京大学院工学系研究科教授(建築学専攻)

鈴木博之氏


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東京駅駅舎 創建時の正面玄関

日本最大の赤煉瓦駅舎―― 甦る「辰野式」の全貌

明治41年(1908)に着工、日本の首都・東京の玄関口として六年半の歳月をかけて竣工した"東京中央停車場"は、鉄骨煉瓦造3階建、銅板総葺屋根、延べ床面積約23900平方メートル。長さ335メートルにおよぶ建物の南北に一対の球形ドームを備えた壮大な建造物だった。対して、現在の駅舎は、戦災で屋根と3階部分のほとんどを失ったため、2階建、スレート屋根、寄棟造八角ドームに変更してある。

「これまで多くの議論があったように、明治・大正・昭和・平成と4代の歴史を伝える建物として、現在の形態・景観を保全すべきだという主張にも理はあります。建築史的に見ても、山崎克氏ら修復にあたった当時の国鉄技術陣の"作品"として評価すべきだという意見もある。しかし、所有者=JR東日本が創建当時の姿に戻すという結論を打ち出したのは適切だったと思います」

「東京駅周辺の再生整備に関する研究委員会」の丸の内駅舎保存・復元分科会で委員を務める鈴木博之・東大教授は、今回の決定について語る。明治36年(1903)にドイツ人建築家バルツァーが提出した最初の設計は、西洋式の壁面に日本式城郭の瓦屋根や破風を載せた(現代の感覚で言えば)奇妙な和洋折衷案だったという。それをベースに最終的な設計案へと纏め上げたのは、わが国草創期の近代建築をリードした巨人・辰野金吾であった。

「辰野金吾といえば、彼が手がけた多くの銀行・保険会社の建物に見られる、赤い煉瓦に白い隅石や石の帯をめぐらせた外壁のデザインがすぐに思い浮かぶでしょう。以前、別の場所で書いたことがありますが、東京駅の保全あるいは復元を考えるとき、最も重要な視点は"この建物の様式は何なのか"ということ。若き日の辰野がロンドン留学時代に吸収したクイーン・アン・スタイル、そしてフリー・クラシックといった様式......彼の生きた1900年前後の建築の潮流と、明治の日本人として彼が体現したわが国近代建築のオリジナリティ......両者を総合した"辰野式"のエッセンスが、この駅舎には結晶していたのです」

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創建時のドーム写真

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創建時の出札所

そして世界の潮流の"影響"にとどまらない建築家・辰野の"オリジナリティ"は、失われた屋根・ドーム部分にこそあった――と、鈴木教授は言う。

「戦火をかいくぐった煉瓦壁を"保存"することが大切なのはもちろんですが、それらが一個の"意志ある建築作品"であった当初の姿に"復元"することには大きな歴史的意義があります」

その一方で、この建物を現代に生かし、次代へと継承させるため、内部空間・機能については新たな構想が不可欠となる。多くの利用者を迎える駅舎としての用途、また、ホテル、レストラン、ギャラリーといった用途をより十全に満たす空間を現代の技術によって創出することも、実施設計にあたっての大きな課題となる。

「いずれにせよ、現在も刻々と姿を変えつつある丸の内という街区にあって、本来の姿に復元された駅舎は、われわれの想像力を喚起する都市の"記憶装置"として機能することでしょう。建物の性格と姿は常に不可分なものなのです」

鈴木教授の指摘は多くの示唆に富む。建物に付与された"東京の中央駅"という性格、そしてその"性格"が必要とした"姿"――単なるノスタルジアでなく、変貌する丸の内地区のランドマークとして十分な力を備えた建築作品としての再生に向けて「復元・東京駅」はいよいよ近い将来にその全貌を現わす。

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創建時の東京駅正面

文:歴史作家 吉田茂

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