迎賓館赤坂離宮

オフィスマーケットⅣ 2009年9月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

明治32年に着工、10年の歳月をかけて完成された迎賓館赤坂離宮。時代と共にその様相を変えてきた建物の変遷と歴史を追いかけた。

迎賓館赤坂離宮
大ホールの中央階段。真紅の絨毯で1階玄関ホールへ続いている。

私的空間から国賓接遇の場へ――知られざる"変身"の経緯

現在、諸外国の元首や王族等、国・公賓に位置付けられる人々の訪問に際して、会談・宿泊その他の接遇に供される国の施設は、東京の迎賓館――赤坂離宮と京都迎賓館の二カ所であるが、平成17(2005)年に完成した京都迎賓館が初めから接遇施設として構想された純和風建築であるのに対し、東京のそれはいささか複雑な経緯をたどって今日に至っている。
敷地は元紀州徳川家の中屋敷があった港区元赤坂。中屋敷とは高位の大名が構えた別宅で、上屋敷が火災等に遭った際には仮の藩庁として機能する。平時には大名の子弟や親族が生活するという役割を担っていた。明治の大政奉還~維新政府の発足に伴って、当主徳川茂承がその西部を皇室に献上、明治6(1873)年に皇居(江戸城西の丸)が火災を起こし、赤坂離宮は仮御所となった。
その後、皇太子(後の大正天皇)の御成婚を控え、赤坂離宮は東宮御所として全く新規に造営されることとなる。明治32年に着工、10年の歳月をかけて完成された建物の外観は、壮麗無比ながら斬新な意匠に富んだネオ・バロック様式で、左右対称の両翼を前方に張り出した曲面とし、正面部と翼部をオーダー柱で支えた整然たる構成であった。
設計総指揮はジョサイア・コンドルの直弟子である工部大学校造家学科一期生の片山東熊。彼は、御所建設に先立って、ルーブル宮殿(1674)、ベルサイユ宮殿(1626)等を視察し、重厚なバロック建築に自由で独創的な発想をこの建物に惜しみなく注ぎ込んだ。平行して建設された東京国立博物館・表慶館(1908)と相俟って、この建物が片山の宮廷建築家としての地位を不動のものとしたのも頷ける。
延床面積は約15,355平方メートル。地下1階、地上2階の規模ながら、その存在感は圧倒的である。 地震国日本の条件に鑑み、柱脚根固め用として逓信省から払い下げられた英国製古レールを使用していることや、国産(茨城県)の真壁石(花崗岩)を凹凸に隙間なく張り付けたことなど、一つひとつを採り上げても、この建物の歴史的意義・建築史的意義に思い至る。なお、別に米国カーネギー社に特注した鉄骨を含め、鉄骨の総重量は2800トンに及ぶという。

ただし、それだけに費用もかかっている。着工後10年間の物価上昇の影響はもちろんあったが、総工費510万円は当時において破格であり、若きプリンスに重ね合わせた"明治日本"の国威発揚に賭ける凄まじいまでの意欲の現われとみるべきだろう。ちなみに当時最新鋭の戦艦建造費がおよそ1000万円。現在の物価に換算して当時の500万円は900億円とも1000億円ともいわれる。

さて、東宮御所として出発した赤坂離宮の建物であるが、大正天皇の摂政宮であった昭和天皇が震災から昭和3年まで暮らしたほか、英国皇太子の宿泊、満州国皇帝溥儀の宿泊などに使用された記録がある。戦後は、国立国会図書館、法務庁法制意見局、裁判官弾劾裁判所、憲法調査会、東京オリンピック組織委員会等に使用されたが、本格的な国賓接遇施設として生まれ変わる大改修工事が昭和43(1968)年から開始された。当時の建設省官庁営繕部の設計監督の下、本館の設計は村野藤吾が担当して、昭和49年に完成。以後、迎賓館として多彩な用途に供され、今日に至るわけである。
迎賓館赤坂離宮

正面玄関屋根。屋根の左右には日本の甲冑を象った装飾が飾られている。

迎賓館赤坂離宮

迎賓館赤坂離宮

迎賓館外観。約35,700坪の敷地に建てられたネオ・バロック様式の洋風建築。

平田悦雄 氏

迎賓館庶務課長

平田悦雄 氏

"美"を保全するために――担当者たちの愛情と矜持

迎賓館赤坂離宮
30枚の花と鳥が描かれた七宝焼で飾られた「花鳥の間」。 最大で130名の席を設けることができ、現在、国公賓主催の公式晩餐会が催されることが多い。

JRと東京メトロの駅が隣接する四谷見附から並木道をたどるか、或いは赤坂見附から坂を上り詰めた地点、そこには都心とは到底思えない静謐な空間が存在している。鉄柵に囲まれた白亜の殿堂

―― それが迎賓館である。

鉄柵と重厚壮麗な門、それがこの建物の用途に沿った必要不可欠な要素であることを、頭では理解しても、いざその前に立つと想像以上の敷居の高さに戸惑ってしまう。

「国・公賓の接遇、国際的に重要な会議などが行なわれる場所ですから、もちろんそれ相応の警備体制を警察と協力して敷いています。しかし、国家の至宝とでも言うべき文化財でもあるわけですから、昭和50(1975)年からは、主に夏季を選んで一般の館内参観も受け入れています。多くの皆さんに、機会をつくってこの宝物を実見していただきたいですね」

そう語る庶務課長平田氏は、建物全体の保全責任を負う館長とは別に、内部の調度・什器等の管理を行なう部門のトップである。付け加えれば、現在の迎賓館は内閣府の施設等機関に位置付けられている。

「外観の美しさを差し置いても、この建物の内部空間は素晴らしい価値を備えています。御所から迎賓館への変遷に際して、間取りであるとか、装飾を一部変更せざるを得なかった事情もありますが、平成18(2006)年からの改修工事を機に復元できるところは復元します。今後もその方針です」

赤坂離宮は、多分野の専門家による徹底した分業によって施工され、室内装飾担当としては、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)教授で画家の黒田清輝、油絵作成は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学工芸学部)教授の浅井忠、模様図案は東京帝室博物館(現・東京国立博物館)部長の今泉雄作、花鳥画製作に帝室技芸員の今尾景年、七宝焼製作に渡辺省亭と濤川惣助......など、思わず溜息の出るような豪華な顔触れが名を連ねている。

「未曾有の建設費と言われた背景には、こうした人材が一堂に会し国運隆昌を示すという事情もあるのではないでしょうか。ただ、復元とはいっても、当時の技術が継承されていなかったり、素材が既に調達不可能だったりという困難が常につきまといますね」

内部は主としてフランス18世紀末の様式が採られたが、各室にアンピール様式やムーリッシュ(イスラム)様式、アンリ二世様式など、多彩なスタイル・技法が用いられていることも、この建物の大きな特徴である。迎賓館への大改修時に本館設計を担当した村野藤吾の次のような言葉が残っている。

「裂地類、敷物、家具の製作にも苦心した。残っていた家具の中には今日のヨーロッパではできない貴重なものもあった。(中略)迎賓館は竣工した直後から金のかかるものである。善良な管理を怠れば、美しいだけに荒廃が目立つ」(『迎賓館改装記』)

昭和49(1974)年の改修では明治42(1909)年の完成から66年経過した困難を乗り越えて、総面積約660平方メートルにも及ぶ天井画が修復されたのは特筆すべき事柄であろう。また、美術品類以外でも重量約1トンにも及ぶシャンデリアなど、他に類を見ない器具や家具の整備も着々と進められている。その時からさらに30年余が経過し、状況はいっそう困難なものとなっている。

「やはり、こうした名建築の保全には、何十年先を見据えたビジョンが必要となります。膨大な部品のスペアを予め余分にストックしておくとか、技術者を日頃から積極的に養成して"匠の技"を継承させる......目に見えない努力が後々に生きてくるのだと考えています」

建物のみならず、"モノとワザ"を継承し保全すること。この考え方は、文化財保護のすべてに通じる基本なのではないだろうか。

歴史的な価値については言うまでもない。そして、さらに日々新たな"歴史"を創り続ける空間。そこに生まれ育まれる、職員一人ひとりの愛情と矜持が強く感じられた取材だった。

迎賓館赤坂離宮

「朝日の間」の獅子の絵。 見ている人の方向に向いている様に見える"だまし絵"となっている

迎賓館赤坂離宮

西側に位置する「羽衣の間」。 高さ約3メートル、重さ約1トンにも及ぶシャンデリアは迎賓館の中で最も大きい。

迎賓館赤坂離宮

18世紀末のフランス古典様式を取り入れた「大ホール」。 壁には日本を代表する画家・小磯良平の絵画が飾られている。

迎賓館赤坂離宮

正面玄関の真上に位置する「彩鸞の間」。 現在、国公賓への謁見や条約・協定の調印式、テレビインタビューなどに使用されている。

迎賓館赤坂離宮

2階南面中央に位置する「朝日の間」。 その名は天井絵の「朝日を背にして女神が香車を走らせている姿」に由来している。

文:歴史作家 吉田 茂