市政会館・日比谷公会堂

オフィスマーケット 2001年5月号掲載

※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

日比谷公園内にある「市政会館」「日比谷公会堂」は両者が一体となっている珍しい建築物。「市政会館」は1928年の竣工当時からエレベーターやメールシュート、給湯設備を取り入れていた。現在も多くの各種団体がオフィスとして使用しており、高い独立性を保った運営がされている。

memory_hibiya-kokaido_01_linetouka.jpg日比谷のランドマークとして親しまれる時計塔。時計は東西南北4面に取り付けられている

機能美と恒久性の総合――"素材の個性"を追究する建築理念

東京都千代田区・日比谷公園の一角に位置する市政会館と日比谷公会堂は、両者が一体として存在する異色の建築物である。時計塔が印象的な会館部分は全体の建設者でもある財団法人東京市政調査会が管理、一方、公会堂部分は昭和4年の落成直後より東京市(当時。現在は東京都)の管理に委ねられて現在に至っている。
この建物の建設が計画された経緯と管理分担の事情については後述するが、計画段階で設計図案競技(コンペ)が実施されたのも当時としては異例のことだった。
大正11年12月に施主である東京市政調査会が建設要項一五カ条と応募心得一二項を示し、指名された著名建築家8名が翌年3月に18種の案を提出した。要項には、この建物が「二個の供用目的を有」すること――すなわち調査会と他のテナントが使用するオフィスビルと多目的ホールの合体したものと明記され、「地上6層以下。
ただし別に時計塔を設置すること」などの細目も指定されており、審査の結果、元早稲田大学工学部教授・佐藤功一の案が第1等となる。
佐藤はすぐに実施設計にかかったが、建設予定地が公園内であることなどから建築認可が難航し、最初の申請から丸4年を経過(大正14年再申請)して許可交付となるまでの間に、設計案は大きく変化せざるをえなかった。建設地も、当初の公園東北隅から現在の東南隅へと変更。さらに、基礎工事に着手する直前に関東大震災が起こる。その経験は、従来レベルにとどまらぬ耐震性・耐火性を新造の建築物に要求することになった。元来が建物の恒久性を重視する建築家だった佐藤は「お化け丁場」の異名をとる軟弱地盤に挑み、根切底に18メートル余の松材坑木を2200本も打ち込んだ上、鉄筋で組んだ基礎にコンクリートを流し込む工法を2年がかりで実施した。日比谷公園付近は現在も地盤沈下が目立つ地域だが、この基礎工事によって会館・公会堂の建物はほとんど影響を受けていないという。
昭和3年より本格的な建設工事(施工/清水組=現・清水建設)が始まり、やがて翌4年10月、柱形を連立させて垂直線を強調した近代ゴシック様式の建物が荘重にして優美な姿を現わした。

鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上六階、塔屋四階(塔屋最高階まで地盤面上四十二メートル)。外装は茶褐色タイル張りを基調とし、要所に石材と黄色テラコッタを配し、公園の景観と調和する高雅な色調と堅牢性の両立に成功している。
我が国で陶器材料を建築へ本格的に用いた先駆として記憶されるべき作品である。
愛陶家であった佐藤はタイルやテラコッタの製作・選定にこだわり、大阪や名古屋の工場まで幾度も赴いては貼り合わせる高さや角度を工夫し、光線による陰影を調べ、自ら現場の技術者を指導したという。
また、ここでは陶器材料のみならず、コンクリート、木材、石材、ガラス、金属など、あらゆる素材の機能美が追求され、それが空間に反映されている。素材の個性を総合して建築物の個性へと昇華させるという、佐藤の建築家としての理念が、見事に具現化された好例といえるだろう。

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市政会館側より見た正面全景。垂直線を生かしたネオ・ゴシック様式が、時計塔の印象を際立たせる

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一等となった佐藤氏の当初の設計案(市政会館側)

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コンペにはこのような案も出された

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日比谷公会堂側の正面入口。 数々の催しが歴史を刻んできた

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着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

大正12年

(1923)

4月.東京市政調査会館設計競技で佐藤功一案が1等となる。
9月.関東大震災。日比谷公園が避難所となる。

大正14年

(1924)

10月.建設予定地で地盤強化の基礎工事が始まる。
 この頃、建築家グロビウスらによるバウハウス運動盛ん。

昭和2年

(1926)

5月.リンドバーグが大西洋単独横断飛行に成功する。
8月.初申請以来4年を費やして建築認可が交付される。
12月.上野―浅草間に日本最初の地下鉄が開業する。

昭和2年

(1926)

2月.普通選挙法による初の衆議院選挙が行われる。
5月.定礎式。
9月.英医師・フレミングがペニシリンを発見する。

昭和4年

(1928)

10月.市政会館・日比谷公会堂が竣工する。
同月、ウォール街で株価が大暴落する(暗黒の木曜日)。

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落ち着きある空間に仕上っている1階エレベーターホールと建物を象徴する素材―― タイル。設計者である元早稲田大学工学部教授・佐藤功一が自ら製作・選定にこだわ り、大阪や名古屋の工場まで幾度も赴いて、現場の技術者を指導したという

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市政会館正面玄関の扉。ここから「市民生活の灯台」へ昇る

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現在も使用されている市政会館内部のメールシュート。各階に設置さ れたメールシュートから入れられた郵便物は、地下1階で取りまとめられ る仕組みだ

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東京市政調査会設立者である後藤新平。市政会館・日比谷公会堂の落成を見ることなく急逝した後藤は常々「調査会は市民生活の灯台、公会堂は市民の心の灯火」であると語っていた

市民生活の灯台――「大東京構想」を象徴する二種の空間

大正9年12月に東京市長となった後藤新平は「市政の科学的究明」を理念として掲げ、翌年4月に東京を近代国家日本の首都にふさわしい都市として再生させるマスタープランを策定・発表した。世にいう「8億円計画」である。国家予算が15億円前後だった時代であるから、いかに大胆な計画であったか想像できる。計画15年間の長期にわたって実現されるはずだったが、中でも後藤が情熱を傾けた事業が、都市問題の調査研究機関設立と言論・文化の拠点となる多目的ホールの建設だった。
これに応えたのが一代で旧安田財閥を興した実業家・安田善次郎である。 安田は350万円という巨額の寄附と用地の提供を申し出、これを後ろ楯として建築計画が立てられた。

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土地を別にした建築費総額は275万4000円(当時の公務員の初任給75円)で、ほぼ当初の予算通りとなった。
市政会館は、建築当初からエレベーター、暖房・換気装置、防火装置、
メールシュート、給湯・給水・衛生設備、電話設備など最新鋭の設備が施され、世界でも最先端を行くオフィスビルとして誕生した。「賃貸先は公共性の事業を営むものとすること」を入居条件とし、築後70年を超える現在も、会の事務所が置かれるほか、地方自治体や公共性の高い財団・社団法人17が使用している。会はここからの収益で運営され、創立当時の理念のまま高い独立性を維持し続けている。
ホール(日比谷公会堂)部分の管理を東京市に移管させることは、予め決められていた。調査会の拠点である市政会館部分と、市民に供される公会堂部分の性格を管理上からも明確にする意図で、この独立分担制は、現在に至るまで守られている。落成式当日に、二代目の阪谷会長が当時の堀切東京市長へ公会堂のマスターキーを受け渡すセレモニーが行われた。
戦前・戦後を通して数々の催しや演奏会が行われてきた日比谷公会堂は、設計者の佐藤が大学の音響実験室で完成させた技術が随所に採用され、以後、我が国オーディトリアムのプロトタイプとなった。客席は2階から4階までスロープ式に分けられ、各階ロビーの床は大理石仕上げ、壁と柱には外装と同じタイルが張られた落ち着きある空間は、まさに人々の憩いの場として理想的なたたずまいといえる。
建物全体を印象づける時計塔も、竣工直後から日比谷周辺のランドマークとして人々に愛されてきた。親時計は地下に置かれ塔頂の機械と電気で接続。時刻を四面の針に伝える方式がとられている。市政会館内部のあちこちに置かれている子時計の中にも、この親時計と連動しているものがある。
市政会館・日比谷公会堂の落成を見ることなく急逝した後藤は常々「調査会は市民生活の灯台、公会堂は市民の心の灯火」であると語っていたという。8億円計画は挫折したが、後藤の構想は日比谷公園の一角に大きな遺産として存在している。この建物は、平成11年(1999)に東京都選定歴史的建造物に選定された。
鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上六階、塔屋四階(塔屋最高階まで地盤面上四十二メートル)。外装は茶褐色タイル張りを基調とし、要所に石材と黄色テラコッタを配し、公園の景観と調和する高雅な色調と堅牢性の両立に成功している。
我が国で陶器材料を建築へ本格的に用いた先駆として記憶されるべき作品である。
愛陶家であった佐藤はタイルやテラコッタの製作・選定にこだわり、大阪や名古屋の工場まで幾度も赴いては貼り合わせる高さや角度を工夫し、光線による陰影を調べ、自ら現場の技術者を指導したという。
また、ここでは陶器材料のみならず、コンクリート、木材、石材、ガラス、金属など、あらゆる素材の機能美が追求され、それが空間に反映されている。素材の個性を総合して建築物の個性へと昇華させるという、佐藤の建築家としての理念が、見事に具現化された好例といえるだろう。

文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦

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