神戸市の歴史的建造物群

オフィスマーケット 2001年7月号掲載

※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

神戸は開港後に整然と区画が定められ、今の街並みの基礎となっている。1978年に神戸市が制定した「都市景観条例」をきっかけに市内の近代建築が見直されるようになった。1995年の阪神淡路大震災では被害を受けたが、建造物たちは用途を変えながらも昔ながらの雰囲気を残している。

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① 商船三井ビル(旧大阪商船神戸支店)大正11年にアメリカンルネッサンス様式を基本にして造られた。現在は、大丸デパートのインテリア館として活用されている

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② チャータードビル(旧チャータード 銀行神戸支店)昭和13年に竣工。 現在は内部を改装してブティックや レストランとして活用されている。入 口や金庫は今でもそのまま現存。上手に活用されている

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③ リブラブウエスト(旧居留地38番館)昭和4年竣工の石積で造られた重厚で量感の ある建物である。現在は、内部を改装し、ブティックなどの店舗が多数入居している

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④ノザワ(旧神戸居留地15番館)明治13年頃に竣工された。当時は、1階が 事務所、2階が居宅として使われていたとされる。平成元年、重要文化財に 指定。現在は復元され、レストランとして使用されている

呼吸する近代建築――街の鼓動と歩調を合わせた多彩な活用

日本における近代西洋建築の歴史は、いわゆる開国――安政五カ国条約の締結以降に発展した貿易都市の発展と共に歩んできた。当初の長崎・横浜・函館三港に続いて、神戸は明治維新の年(西暦1868年)1月1日に開港している。開港後、新規に建設された市街地は外国人居留地を中心に整然と区画が定められ、現在も町並みの骨格をなしている。居留地制度は明治32年(1899)に解消されたが、外国商館とその後の日本資本による近代西洋建築は同地に親しく軒を列ねて、神戸という「街」の独特な雰囲気を醸成してきた。
だが、旧居留地地区の建物は戦災でその七割前後が破壊された。高度成長期に市域が東部へ拡大したこともあり、戦災を免れた近代建築もいつしか「忘れられた存在」になるかと思われた。
それらが「再発見」されたのは、昭和50年代になってからだ。神戸市が全国に先駆けて「都市景観条例」を制定(昭和53年)したのとほぼ時を同じくして、旧居留地地区を中心とする近代建築群も新たな視点から見つめ直されることとなった。建物の文化的・歴史的価値と収益性を両立させる保存・活用法がさまざまに模索され、一部が商業施設として新しい生命を吹き込まれたのもこの時期からのことである。
そうした動きの中、平成7年1月の阪神・淡路大震災は神戸市の近代建築に大きな打撃をもたらした。地震による直接の倒壊・破損はもちろんだが、経済的な痛手が建物の所有者に再建・修理に対する困難な選択を突きつけることになったからだ。
その困難を乗り越えて、現在、再び多くの建物が街とともに呼吸し、復興への鼓動を共有しながら保存・活用されている。損害が軽微だった「旧チャータード銀行神戸支店」にはいかにも港町らしい洒落たブティックとパブ・レストランが併設され、全壊した外国商館「旧居留地15番館」も復元工事を経てレストランを営業している。百貨店の本館と前面を揃えて立つ「旧居留地38番館」は同店のインテリア館として機能しているし、市立博物館である「旧横浜正金銀行神戸支店」は別格としても、多くの近代建築がそれぞれの個性を合わせて用途を付与され、生き生きとした街並みの一員としてその存在を主張している。
旧居留地地区から海岸通りを西へ向かった場所にある「旧三菱銀行神戸支店」の活用法もユニークだ。神戸で最初(明治33年)に建てられた煉瓦造りビルとして知られるが、ここは、所有者の(株)ファミリアによって一階営業場フロアが多目的ホールに改装された。
一般のコンサート等のほか、子供服・玩具を扱う同社らしくファッションショーなども開催されるという。二階・三階部分はクリエイターたちのアトリエ空間として使用され、一部はオーナーのオルゴールコレクションなどを保管するスペースになっている。
神戸の近代建築は、そのいずれもがいかにも「この街らしい」使われ方をしている――「商都」にふさわしい生産的な活用に供されていることに気づかされた。無論、主用途から上がる収益のみでの維持・保存が難しいのはいうまでもない。ただ、こうした「景観」「表現する建物」が価値を生み出し、神戸という街全体を活性化させる一助となっていることは確かである。
かつてそれらが「発展」の象徴であったように、今、再び「新生」の一翼を担ってこれら近代建築群が生き生きと個性を表現し、活躍し続けてくれることを願う。

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昭和初期の海岸通を写したもの。国際的近代都市としての神戸を代表とする都心業務区を形成しているのがわかる(写真:神戸市立博物館)

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⑥神戸市立博物館(旧横浜正金銀行神戸支店)昭和10年に竣工。外装はすべて御影石で 造られている。内部は改修されたが、当時の業務室、天井格子は、ほぼそのまま残されている

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⑦海岸ビルヂング(旧日豪会館)明治44年の竣工。当時海岸通りで、一、ニを争う名建築で あったと伝えられているが、戦災で正面中央のペディメントが惜しくも崩壊。当初の面影とは かなり異なっている

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⑧海岸ビル(旧三井物産神戸支店)カーン式という特殊な工法で構築された。大正8年の 竣工。外壁は、震災による再建で元の石材を再利用するかたちで復元保存されている

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⑨石川ビル(旧東京倉庫兵庫出張所)明治38年の竣工。ドーマー窓や煉瓦煙突など、調和 のとれた建物に仕上っている

景観を創造する意志――建物の「存在」と「表現」

兵庫県神戸市は昭和53年(1978)に「都市景観条例」を制定し、全国に先駆けた試みとして注目を集めた。このときすでに「都市景観を"まもり""そだて""つくる"」という目的が掲げられていたが、続く「都市景観形成基本計画(景観マスタープラン)」の策定では対象となる地域や建築物の指定など具体的な方策が示され「都市景観」を「まちづくり」の重要な要素として位置付ける方向性がいっそう明確にされた。

「その後、平成2年に条例を大幅に改正し『景観形成重要建築物』の指定制度を盛り込みました。この制度は、いわゆる古建築・近代建築にとどまらず、周辺地域の雰囲気を特徴づけていれば現代建築や樹木・樹林、橋梁やモニュメントなども幅広く対象としています。それぞれ見え方・場所性・文化性に着目した景観評価を経て所有者の同意のもとに指定し、地域活性化の要として"まちづくり"に生かしていきます」

地区のランドマークとしての価値が認められるのであれば、近年建てられた高層ビルも指定の対象として検討するという。指定されると、所有者と行政が協議した上で管理計画が定められ、現状変更等の際には届出が必要になる。ただ、建物そのものの保存を目的とする文化財保護策とは異なり「あくまでも外観保全を最優先し内部についてはむしろ積極的な活用と機能向上を図る」という所有者に配慮した緩やかな方針が採られている(外観保全に必要な修理費については助成)。

「歴史を積み重ねてきた都市である一方、さらなる発展を意図する商業都市・経済拠点だということ。これが第一の前提だからこそ、単に"景観保全"ではなく "景観形成"という視点が重要になってくるんです」

同市では「北野町山本通地区」「旧居留地地区」「南京町地区」「神戸駅・大倉山地区」など7地区を景観形成地域とし、それぞれ個別のコンセプトを設定してまちづくり支援を推進している。「北野町山本通」では「異人館・坂・緑を生かした街並み」、「旧居留地」では「にぎわいと風格のある伝統的街並み」だが、「神戸駅・大倉山」ではこれが「活気あふれる文化と緑の街並み」となる。「歴史・伝統」ばかりでなく、新たな「文化」の創造まで視野に入れたまちづくりの一環として「景観形成」を位置付けているということだ。
今年ですでに16回目となる「神戸景観・ポイント賞」の表彰や、行政による市民活動への助言・指導など市民の意識を高める試みにも同市は積極的だ。また、旧居留地の近代建築を含むビルの所有者らが独自に構成する連絡協議会が市と協力して街並み形成のルールづくりをするなどの活動もあり、行政・所有者・市民の三者が一体となって、神戸らしい景観をつくっていこうという気運は高まりつつある。
建物は「使って初めて意味がある」――単なる「存在」を脱し建物が自ら「表現」し始めてこそ、景観は生き生きと立ち上がり、都市の活性化が実現する。ならばその一方で、都市が生き、呼吸している限り、景観もそれに合わせて変化せざるをえない。調和のとれた美しい街並みとして全体を形成するためには、まちづくりに対する官民共通の強い「意志」が要求されるに違いない。さまざまな事例を積み重ねてきた「先駆者・神戸」が、近い将来、どのような顔を見せてくれるのか期待の集まるところである。

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文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦

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