「旧新橋停車場」復元駅舎

オフィスマーケット 2003年5月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1997年にスタートした「旧新橋停車場」外観復元プロジェクトは、古写真をコンピュータ分析して寸法を割り出すなど先端の技術を使用。しかし建材基準など「昔どおり」ではクリアできない問題がたくさんあった。復元の裏側に秘められた工夫やポイントなどを総括責任者に伺った。

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竣工当時の新橋停車場正面写真(「ザ・ファー・イースト」より 横浜開港資料館所蔵)

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正確な資料が無い中央の貴賓用出入口は、コンクリートアーチで新たにデザイン。 寸法決定の物差しとなったステップ段石の実物が見学窓から見られる

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「京浜鉄道開業式行幸」(明治神宮聖徳記念絵画館所蔵)

"記憶装置"としての新生――真実を将来へ受け継ぐために

着々と再開発工事が進行する東京都港区汐留。昭和通りに面して、今、また一つ、新たな建築作品が堂々たる姿を現わした。国指定史跡の上に建つ「新橋停車場」の復元駅舎である。
延床面積は1351平方メートル。鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)。高さ15メートルの地上2階建。周辺にそびえる高層ビルと見比べて最初に連想したのは、バージニア・リー・バートン作の名作絵本『ちいさいおうち』だった。野原の丘の上に建つ小さな家。やがて、たくさんの家々が建つようになり、周囲は急速に都会化していく。そんな物語だった。ビルとビルに挟まれながらも失われなかったあの家は、赤いレンガ造だったろうか。一方、この復元駅舎を改めて眺めてみると、外壁に薄緑色を帯びた石材を用いた重厚な姿が、規模の大小にかかわらない「建築」としての確固たる存在感を示している。
わが国の鉄道文化の起点となった新橋停車場は、明治5年(1872)に竣工した。設計はアメリカ人建築家ブリジェンス。以後、中央駅としての輝かしい歴史を刻みながらも、大正3年(1914)の東京駅開業により貨物専用駅となり、関東大震災で駅舎本屋を焼失してしまった。

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発掘調査により位置の正確さが確認された国史跡指定「0哩標識」と車止め。 軌道部分も可能な限り正確に再現した

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モダンな建物内部には基礎石積の実物が視認できる見学窓がある。史跡保護のため内部に強制換気システムを施した

竣工当時の古写真や発掘された実物の駅舎基礎など信頼できる資料のみを基に、可能な限り正確に本物が存在した「場所」の上に当時の「外観」を再現する――数々の労苦を乗り越えて、今、ここに復活した駅舎の姿を眺めることは、一種、胸に迫る感動さえともなう。この場所の地下には、旧駅舎そのものの基礎石積が静かに眠っている。そして、その上の空間に、今や手触りを確かめられる実体としての建築がある。
コンピュータ・グラフィックスやホログラムなどではない。都市における"記憶装置"あるいは"歴史意識の喚起装置"として機能する建築の「力」がここには確かに存在している。
建物の背後に回ると、駅舎に連続して再現された25メートルのプラットホームと「0哩標識」がある。軌道は明治初期当時に用いられていたのと同じレール1本24フィート(7.3メートル)で再現したという。また、双頭レールは明治6年(1873)英国製の実物を新潟の石油加工会社から譲り受けたものだ。ホーム脇に設置された見学窓からは実際の石積を視認でき、建物内の見学窓から見える礎石と共に、真実を伝える「史跡」としての価値を再認識させてくれる。
さて、この4月10日に開業予定の「旧新橋停車場」は、レストランを主用途とし、汐留の地や鉄道の歴史を紹介する「鉄道歴史展示室」が併設される。展示室の基本コンセプトは「訪れた人々が気軽に楽しむことができる部屋」である。
物々しい"博物館"としてではなく、この土地に本来備わっている「記憶」を訪問者が共有できるオープンな「場」としての公開をめざしているという。
オープニング記念企画は「日本の鉄道開業」。以後、「汐留の移り変わり」「明治期の西洋建築」と続く。

蛇足ながら付言すれば、絵本「ちいさいおうち」は元の所有者が家を郊外に丸ごと移築するという結末だった。対して、停車場の建物は純然たる現代建築ながら、歴史の真実を将来へと受け継ぐため、その本来あるべき場所で新たなる生を授けられた。"復元"が目指した真の意味もそこにあるだろう。忙しく連続する「時間」を途中下車して、われわれも、しばし、その語る声に耳を傾けてみる必要がありそうだ。

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新橋停車場復元駅舎全景

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竣工前後 ―― 歴史と世相

明治3年
(1870)
  • 7月 普仏戦争が起こる。
  • 11月 工部省鉄道掛が新橋―横浜間の軌条敷設に着手する。
明治4年
(1871)
  • 4月  新橋停車場本屋が着工される(12月、乗降場着工)。
  • 7月  廃藩置県が実施される。

明治5
1872)

  • 4月  新橋停車場本屋が落成する(6月、乗降場落成)。
  • 8月  学制が発布される。
  • 9月  新橋―横浜間の鉄道が正式開業する。

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建築家(日本設計)
旧新橋停車場復元設計JV総括

田原幸夫氏

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新橋停車場竣工式(「ザ・ファー・イースト」より  横浜開港資料館所蔵)

明治の精神と平成の技術――詳細な分析に基づく"外観"復元

平成9年(1997)に企画がスタートした「旧新橋停車場」の外観復元プロジェクトだが、その基本実施設計にあたっては通算で実に3年もの年月が費やされた。

「もともと"復元"(Reconstruction)という行為には多くの議論があります。ただ、基礎の石積が発掘されたことによって平面寸法が厳密に確認できた。そこで、地下に実際の遺構を埋め戻した上部の空間に『推測を極力排除した外観の復元』を目指すということになったわけです」

責任者として設計にあたった田原幸夫氏は「復元という行為が人々に対して歴史への誤解を生じさせるのでは、本末転倒であるばかりか、史跡としての価値を損なう結果にさえなりかねない」と語る。
復元駅舎はあくまでも現代建築であるという認識のもと、解明可能な部分についてはできうる限り正確を期すという方針で設計作業は進められた。幸い、当時の有力英字誌"ザ・ファー・イースト"などに掲載された古写真は極めて精細・明瞭に竣工当時の駅舎の姿を伝えており、コンピュータによる分析で作成した3次元データと基礎実物の計測寸法をすり合わせることで、駅舎の高さや窓などの垂直寸法もほぼ正確に割り出された。最終的に決め手となったのは現地で発見された正面階段の段石で、蹴上げが170ミリ、踏み面が300ミリ。これを基準物差しとして最終寸法が決定されていったという。

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25メートルの範囲で再現したホーム石積。 屋根はあえて造らず、当初の姿をイメージできるよう柱とフレームをデザインした

一方、文献などから当初の主要な材料はほぼ特定できたが、その多くは、すでに入手不可能か、仮に入手できたとしても建材として現代の基準を満たさないものである。そこで、外壁の主要材料であったと考えられる砂質系凝灰岩「伊豆斑石」は、現在も一般的な外装用建材として用いられている凝灰岩である「札幌軟石」に変更した。コーナー部分、ベース部分も現実に使用可能な材料を用いて設計した。

「外観の意匠で一番問題だったのは、正面中央の貴賓専用と思われる出入口。写真では陰になっていて、正確な姿が解らなかったため、改めてコンクリート製のアーチでデザインし、明治の意匠の再現ではないことを表明しています。また、錦絵以外にほとんど資料のない建物内部は、歴史的・様式的な意匠を安易に模倣せず、用途に合わせた現代的空間にしてあります」

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現代の意匠で新たにデザインされたパーツには、 出自を表明する年号数字が。「平成の復元」にあたっ た設計者の良心だ

さらに、建築基準法における耐震基準を満たし、同時に地下の遺構を傷めずに保存する配慮が必要だった。史跡上に置いたマットスラブと一体化したRCを基本構造とすることでこの問題をクリアしたが、このため建物の接地レベルは過去に比していささか高くなっているという。

「とはいえ、それが史跡の保存と新築復元を両立させるギリギリの線。現行法規の適用除外措置などは一切ありませんからね。スロープや車椅子対応エレベーターなど都条例に基づくバリアフリー対策、エネルギー取り込みのためのボックスの設置......多くの制約がありましたが、明治の中央駅の精神を平成の技術で実体化する――"歴史の衣をまとった現代建築"を成立させるという本来のテーマは、なんとか達成できたのではないかと思っています」

建物両脇のエネルギーボックスを歴史的意匠とは対照的なガラスケースとしたのは、現代の付加物であることを明確にするためである。田原氏が明かしてくれたところによると、実は、駅舎の外観を形づくるパーツのうち、新たにデザインしたものについては、目立たないものの「2003」という西暦年号が浮彫りや刻印で明示してあるという。「推測を排除した外観復元」には、こんな遊び心も含まれていた。「旧新橋停車場」を訪れたら、あちこちをくまなく観察して、隠れている4桁の数字を探してみるのも一興だろう。

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歴史的意匠とは対照的なガラスケー スでつくられたエネルギーボックス

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石材は代替品だが、壁面と角部のコントラストな どがよく再現されている。明治と現代の意匠が融合して違和感がない

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窓上部の石材に施された印象的な装飾彫刻。 "明治の精神"を伝えるため、平成の名工たちが腕をふるった

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外観はディテールまで正確に再現されていることが、古写真との比較でわかる。明治建築の威厳が周囲の高層ビルと拮抗している

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竣工当時の新橋停車場ホーム部分(「ザ・ファー・イースト」より  横浜開港資料館所蔵)

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復元された駅舎の正面

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