旧新橋駅復元プロジェクト

オフィスマーケット 2002年5月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

明治時代に東京の表玄関として機能していた「新橋停車場」。1872年に落成し、100年以上現役の駅舎として活躍してきた。「旧新橋停車場跡地」として国から史跡の指定を受け、復元プロジェクトが始まったのは1998年のこと。厳密な計測と再現方法に迫る。

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(横浜開港資料館 所蔵)

記念碑として、新たな文化拠点として――"復元"がもたらすもの

東京都港区。JR山手線新橋駅の汐留口前から新交通「ゆりかもめ」に乗ると、左方向では駅舎の工事が進行している。周辺にも着々と高層ビル街の建設が進むこの地に、かつて明治時代に東京の表玄関、経済・文化の拠点としての役割を果たした「新橋停車場」があった。
明治3年(1870)に時の新政府は、脇坂・伊達・保科家といった大名屋敷を収公し、鉄道駅建設のため汐留付近の測量・地ならし工事を開始した。アメリカ人建築家ブリジェンスが設計し、翌明治4年「汐留停車場」として着工された駅舎は、さらに翌年「新橋停車場」と改称され落成。わが国初の鉄道がここに開業する。

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史跡「旧新橋停車場跡」

鉄道敷設の主な目的は、外国船の入港する横浜と外国人用宿舎のある築地居留地を結ぶことにあったが、煙を吐き出して走る蒸気機関車は、庶民たちにとっても"文明開化"の象徴として鮮烈な印象を与えた。
その後、大正3年(1914)の東京駅開業に伴い「汐留駅」と改称して貨物専用駅となり、戦前戦後を通じて鉄道輸送基地としての重要な役割を果たしてきたが、昭和61年(1986)に廃止され、跡地は翌年、国鉄清算事業団に帰属することとなった。この間、昭和40年に「0哩標識」が国の史跡に指定され、さらに平成3年(1991)度からの埋蔵文化財調査によって発見された開業当時の駅舎基礎・プラットホーム・軌道敷が追加指定を受けて、周辺の約1824平方メートル全体が国の史跡「旧新橋停車場跡」となり現在に至っている。

平成10年、この新橋停車場を当時と同じ場所に開業当時の外観で復元するプロジェクトがスタートした。復元駅舎等の外観については、当時の鮮明な写真、駅舎基礎などの信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に、本物が存在した「場所」の上に当時の「外観」を再現するという方針が採られた。現行の建築基準法等による制約や建設当時に用いられた材料の入手困難、耐久性などから、オリジナルと異ならざるをえない部分についても、当時の「外観」にできるだけ近いものになるよう配慮するという。
また、復元駅舎と連続して25メートルの範囲でプラットホームも再現、軌道についても可能な限り旧態をイメージできるように再現する。現地に埋め戻し保存されている駅舎基礎・プラットホームの現物の一部を、訪れた人々が実際に見ることができるよう、4カ所の見学窓を設けるのも特徴だ。
史跡の「保存」と「活用」を両立する新たな手法のモデルケースとなることが期待される。
平成15年(2003)春オープン予定の復元駅舎は、憩いの場としてのレストランを主用途とし、駅舎・鉄道関係の資料室・データベースが併設される。

わが国初の駅構内食堂(西洋料理店)が設置されたのもほかならぬ新橋停車場であったことを思えば、これもまた奇縁というべきか。地域を問わず「文化の発信基地」であり続ける「駅舎」。その嚆矢としての意味を重視すれば、現代においてもまた、それは人々が集い、新たな文化を発信する場であることが望ましい。わが国鉄道発祥の"聖地"を舞台とするこの復元事業は、「記念碑」「遺跡」であることを超えて、21世紀の新たな「文化発信地」を創造しようという強い意志によって貫かれているのである。

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ホームの石組み

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駅舎の基礎石組み

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旧新橋停車場跡写真 (横浜開港記念館 所蔵)

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着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

明治3年
(1870)

  • 7月  普仏戦争が起こる。
  • 11月 工部省鉄道掛が新橋―横浜間の軌条敷設に着手する。

明治4年
(1871)

  • 4月  新橋停車場本屋が着工される(12月、乗降場着工)。
  • 7月  廃藩置県が実施される。

明治5年
(1872)

  • 4月  新橋停車場本屋が落成する(6月、乗降場落成)。
  • 8月  学制が発布される。
  • 9月  新橋―横浜間の鉄道が正式開業する。

大正3年
(1914)

  • 12月 東京駅開業。新橋停車場は汐留駅と改称して貨物駅に。

大正12年
(1923)

  • 9月  関東大震災により旧新橋停車場の本屋が焼失する。

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昭和通りに面した駅舎の正面(模型写真)

推測の徹底的な排除――ストイックな"復元"のポリシー

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ホーム側より見た駅(模型写真)

復元プロジェクトは財団法人東日本鉄道文化財団を事業主として、平成10年に実質的なスタートを切った。
それに先立つ平成8年12月から、国鉄清算事業団が「旧新橋停車場跡保存復元方策等検討委員会」を設置し、鉄道遺構の保存と駅舎の復元方法などについての具体的な検討を進めてきたが、そこでまとめられた基本方針に沿って事業の運営が財団に委託されたのである。
通算で3年を費やした基本・実施設計には、日本設計とジェイアール東日本建築設計事務所の2社で構成された設計JVがあたり、現在は平成15年春の竣工を目指して鹿島建設・大成建設・竹中工務店の3社から成る施工JVが工事を進めている。

計画概要を見ると、建物の延床面積は1351平方メートル、建物は地上2階、構造は石張りの鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)である。

「このプロジェクトを可能にしたのは、現在、史跡となっている遺構の発見と旧駅舎の鮮明な写真の存在です。古写真を詳細に分析することで、外観を形成する構造・材料などがしだいに解明されていきました」

設計JVの構成員代表・日本設計はそう説明する。復元にあたって設計者が心を砕いたのは"推測を排除"した"真実性"にどこまで迫れるかという問題だった。
外観意匠・寸法の解析にあたっては、複数の写真から3次元データを作成するソフトウェアを活用しながら、同時代の建物の事例も調査しつつ、地道な作業が続けられた。各写真に同一ポイントの位置を設定し、確度の高い部分の寸法から全体寸法を割り出すという仕組みである。基礎の実測図と明治年間の改修工事図面のすり合わせ作業、そして3枚の古写真によって、駅舎の外形寸法がほぼ判明。窓などのサイズも同様にして割り出された。
もう一つの重要な要素である材料だが、駅舎外壁の石材は特徴的な模様によって凝灰岩の一種である「伊豆斑石」だと特定できたものの、産地の伊豆下田周辺は国定公園指定地であり、創建当時と同じ石を切り出して使用することはもはや不可能であった。また強度的にもかなり脆いものであり、現代の外装材として用いるには大きな問題がある。結局、北海道の「札幌軟石」を代替品としたが、採用にあたっては現代の建築としての品質を確保するために「現在も建材として実際に使用されていること」が重視された。同様にコーナー部分の「青石」も、耐候性上の問題から「白河石」を代替品として使用することが決定された。

「再現可能な部分については極力正確を期すが、そうでない部分は設計者の責任において"実用に耐える建物としての現代性"を打ち出していく。つまりこの復元駅舎は"歴史の衣をまとった現代建築"なのです。設計にあたっては、歴史的建造物の復元という基本的テーマを踏まえつつ同時に一個の現代建築として品性ある作品に仕上げたいという思いが常にありました」(日本設計)

設計者が「歴史の魅惑」にからめとられたとき、建物は単なる「模型」「模造品」に堕する危険をさえはらむ。
復元の基本コンセプトが「推測の排除」という極めてストイックなポリシーで貫かれたのはそのせいだ。したがって、信頼性の高い資料の残っていない駅舎内部については、明らかに現代的なデザインとされた。また、耐震・防災対策、バリアフリーへの対応など、現代建築としての「性能」を確保する上でクリアすべき条件も多かった。

それら多くの条件を乗り越え、新橋停車場の駅舎は、創建当時と「同じ場所」に甦る。超高層ビルの立ち並ぶ汐留再開発街区の中心に位置する"停車場"が、街区の活性化に今後どのような役割を果たしていくのか。21世紀のまちづくりを考えるという観点からも、非常に興味ある事例といえる。

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1階展示室内イメージ

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2階展示室内イメージ

文:歴史作家 吉田茂


歴史監修:鈴木博之東京大学教授
設計者:旧新橋停車場復元設計共同企業体
(総括・意匠・設備:日本設計 構造:ジェイアール東日本建築設計事務所)
監理者:東日本旅客鉄道東京工事事務所、ジェイアール東日本建築設計事務所

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