「三菱一号館」復元プロジェクト

オフィスマーケット 2004年10月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1894年に竣工した「三菱一号館」は、1968年の高度経済成長期に一度解体されている。歴史的建造物復元のためのプロジェクトが2006年にスタートし、2009年の竣工の計画が決まった。それは、再建という方法による復元。それによる都市景観の調和を損なわないように細部にまで気を配る工事となった。

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昭和35年頃の三菱一号館全景

"民の系譜"の記念碑――日本近代建築の父と「三菱一号館」

東京・丸の内。江戸城の外郭内に位置していたことに由来する地名であり、江戸時代には大藩の大名屋敷が立ち並ぶ文字通りの"大名小路"であった。その後、ここに日本初のオフィス街が形成され、現在も、わが国金融・経済の揺るぎない中心地としての地位を保っているのは人の知る通りだが、そこに至るまでの過程はいささか複雑だった。

「大名屋敷が取払われ、(中略)近衛の練兵場が設けられ、京に田舎の本文通り茫漠たる原野となって、日暮から通る者もない往古の武蔵野にかえった」――矢田挿雲『江戸から東京へ』

「いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて」――田山花袋『東京の三十年』

同時代の文人らの回想に拠るならば、明治20年(1887)頃の丸の内の姿は偽りなくこういうものであった。矢田は前掲の記述に続けて「明治二十三年、陸軍省でいよいよ持てあまして、渋沢、大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇願的に払下げの相談に及んだところ、誰ひとり引受人がなく、結局岩崎が貧乏籤をひいたつもりで、十万七千三十坪弱を百三十万円弱、即ち坪十円強で払下げた」と記す。岩崎とは、当時の三菱財閥で創業者・岩崎弥太郎の後を継いでトップの座に就いていた弟・弥之助のことだ。丸の内引き受けを決意した弥之助だったが、当座の使途とてなく、「竹林にして虎でも飼うか」と側近に語ったというエピソードさえ伝わっている。だが――"竹林に虎"なる巷説とは裏腹に"三菱ヶ原"と呼ばれたその地には、ほどなく規模壮大にして端麗なる赤煉瓦建築が忽然と姿を現わして東京市民の耳目を大いに驚かせた。ここに、本格的オフィス街としての丸の内の歴史がスタートする。
日本初の本格オフィスビル/テナントビル「三菱一号館」の竣工は明治27年(1894)6月30日。地上三階・地下一階。軒高約15メートル、床面積約5000平方メートルの総赤煉瓦造。イギリス人建築家J・コンドルが設計し、その愛弟子・曾禰達蔵を現場主任とする三菱社内の「丸の内建築所」直営で施工された。
明治政府の招聘に応じて明治10年(1877)に来日したコンドルは、「工部大学校」(後に「帝国大学」)で、曾禰のほか、辰野金吾、片山東熊、佐立七次郎ら日本人建築家の第一世代を育て上げた、まさしくわが国近代建築の父ともいうべき存在である。「三菱一号館」以外に、「帝室博物館」、「鹿鳴館」、「ニコライ堂」などの作品が知られるが、主に設計の腕を振るったのは「有栖川宮邸」や「綱町三井倶楽部」などの邸宅建築・倶楽部建築であり、大規模な官公庁建築においては後進に活躍の舞台を譲って自らは淡然としていた印象がある。
そのコンドルがあえて渾身の力をこめて「三菱一号館」をデザインした背景には、丸の内に近接する霞ヶ関の地でほぼ同時期に進行していた「司法省庁舎」(現在は「中央合同庁舎第6号館赤れんが棟」として復元)及び政府の"官庁集中計画"があったものと想像できる。明治政府が要求する豪壮な官庁建築構想に批判的だったコンドルが、官を辞して個人の設計事務所を開いたのは三菱が丸の内の払い下げを受けた翌年のことだが、それ以前の明治19年(1886)に政府は「臨時建築局」を設けてドイツの高名な建築家エンデとベックマンに"官庁集中計画"の立案を委嘱している。
わが国の近代建築史に"お上の系譜"と"民の系譜"という画期的な視座を提示した故・村松貞次郎氏(東大教授)の指摘に拠るならば、それはイギリスの恩人コンドルに対する「まさに当てつけ」のような仕打ちであった。ドイツ・ネオバロックの壮大な官庁街計画を推進せんとする"お上"の思惑を横目に、コンドルは民間会社の建築顧問として丸の内の"原野"に自らの理想に基づくオフィス街を立ち上げるべく、その持てる全ての技術を注ぎ込んだ。

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当社図(設計図南側立面図)

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三菱一号館地図

「三菱一号館」の外観は、尖塔式の屋根を連ねたヴィクトリアン・ゴシック――クイーン・アン・スタイルを基本とし、窓にはルネサンス様式を採り入れた"折衷様式"となっている。これは、新時代の様式建築が確立する以前のイギリスで建築を学んだコンドルにとって、最も自然な選択肢であった。入念に仕組まれた基礎上に建つイギリス積赤煉瓦建築。平面は「馬場先通り」と「大名小路」に面したL字型。急勾配の印象的な屋根は日本産の石板を使ったスレート葺、天井には全て木材を使用、また、外部の窓枠部分は安山岩、腰壁は四段積にした花崗岩とし、更に上下階を貫く間仕切壁と帯鉄で耐震性を強化してあった。
後に建つ弟子たちの作品と合わせ、やがては"一丁倫敦"と称されるまでに成長するオフィス街の"第一号"たるにふさわしい完成度を備えた建物である。同時に、それは村松氏の言う"お上の系譜"と拮抗しつつ挫折した木造擬洋風建築の流れを超克した上に立つ、新たな"民の系譜"の出発を記念する輝かしき建築作品であった。
しかし、まるでその登場の仕方と対応するかのように、震災も戦火もかいくぐってきた中で、昭和43年(1968)、高度成長の只中に「三菱一号館」は丸の内から忽然と姿を消すことになる――。

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竣工前後 ―― 歴史と世相

明治10年
(1877)
  • 1月 イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが来日し「工部大学校」教授に就任する。
明治19年
(1886)
  • 明治政府が「臨時建築局」を設立し、議院(国会議事堂)を中心とする大官公庁街の計画が、ドイツ人建築エンデとベックマンに委嘱される(同21年、旧司法省庁舎着工)。
明治21年
(1888)
  • この年「帝国大学」講師の職を辞したコンドルが民間向けの個人設計事務所を開設する。
明治23年
(1890)
  • 3月 東京・丸の内の陸軍練兵場跡地が「三菱社」に払い下げられる。
  • 9月 曽禰達蔵が「三菱社」に建築士として入社する。
  • 11月 「帝国ホテル」が開業する。
  • この年コンドルが「三菱社」の顧問に就任、「丸の内建設所」が設立される。
明治25年
(1892)
  • 1月 「三菱一号館」着工。
明治27年
(1894)
  • 6月 東京・丸の内に日本発の本格的オフィスビル「三菱一号館」が竣工する。
  • 8月 「日清戦争」が始まる(翌年4月終戦)。
明治28年
(1895)
  • 12月 東京・霞ヶ関に旧司法省庁舎が竣工する。

建物概要
工期明治25年1月根伐り着手~明治27年6月30日竣工
規模地下1階・地上3階
構造煉瓦造
設計・施工ジョイア・コンドル(設計)
曾禰達蔵(現場主任)/直営工事
様式イギリス―ビクトリア時代―クィーンアンスタイル
●社団法人 日本都市計画学会
●旧三菱一号館 復元検討委員会
委員長:伊藤 滋(東京大学名誉教授)
(早稲田大学特命教授)
(慶応大学大学院客員教授)
副委員長:鈴木博之(東京大学大学院教授)

「多様化する名建築保全の試み――次代の街づくりの核となる"復元"

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株式会社三菱地所設計
専務取締役

岩井光男氏

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株式会社三菱地所設計
丸の内設計部主幹

山極裕史氏

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三菱地所株式会社
ビル事業本部 ビル開発企画部副長

恵良隆二氏

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三菱地所株式会社
ビル事業本部 ビル開発企画副長

村田 修氏

潤いと求心力を生み出す広場へ――大型街区のランドマークとしての赤煉瓦建築

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南東から見た外観

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三菱一号館 南面見上げ

さて、平成10年(1998)に"丸の内再構築"計画を表明した「三菱地所」は、以降10年間を"第1ステージ"と位置付け、従来のビジネスに特化した街から開かれた多様性のある街への転換を図って「丸ビル」を始めとするビルの建替を推進してきた。新生"丸ビル"の経済効果がマスコミを賑わしたことは記憶に新しい。続いて、今年3月に発表された、平成20年(2008)年からの"第2ステージ"の展開は、再構築事業の更なる"拡がり"と"深まり"を企画し、約111ヘクタールに及ぶ"大手町・丸の内・有楽町地区"全域への効果波及を方針に据えている。

「10年間で4500億円を投資し、7~8棟の建替と既存ビルのリニューアル・インフラ整備を予定しています。"第2ステージ"の第1段プロジェクトにおいて三菱一号館の復元を、することとしました。3棟のビル建替を柱として平成21年度の完成をめざします」

構想では、かつての"一丁倫敦"に位置する「三菱商事ビル」、「古河ビル」、「丸ノ内八重洲ビル」敷地の一部に新しいタワービルを建設、同時に赤煉瓦の「三菱一号館」をもともと在った場所に完全に独立した形で"再建"するという。また、L字形の建物背後にあった中庭スペースを"広場"として改めて位置づけ、文化・歴史・環境を総合した情報発信拠点としての新空間の可能性を模索する。

「一号館の復元については、都市計画・建築史の学識者と丸の内で活動するエンドユーザーの方々に加えて行政の方々にもオブザーバーとして参加していただいた検討委員会で議論を重ね、できる限り竣工当時の忠実な復元をめざすという結論に達しています。素材の解明、工法・技術の解明など、多くの困難が予想されますが、幸いに当時の図面や史料写真、解体時に保存された部材といった多くの手掛かりが残されており、復元事業を通じて当時の建築技術や設計者の思想に迫るという学術的な価値も見出せるものと期待しています」

関係者は「三菱一号館」の復元が「収益を目的としたビル建設とは明確に目的が異なる」点を強調する。まず、復元する建物は利用者の視点から最も有効な活用法を検討していきたいと言う。同様に、社会に対する"情報公開"を徹底することも、本プロジェクトの重要な柱である。

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明治27年の銀行営業所

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明治42年頃の一丁倫敦(ロンドン)

高度成長という"時代"の奔流に呑み込まれるように姿を消した「三菱一号館」だったが、今、名建築の保全・再生の機運が高まる"時代"を背景に、都市街区の再構築事業には事業主と社会の双方向的な対話が不可欠との認識がそこにある。もちろん、近接する「東京駅」の復元など他のプロジェクトとの協調も大きなテーマとなるだろう。
"再建"という方法による"復元"、そしてそれによる"記憶の再生"――こうした在り方は、今後、もっと検討されてもよいはずである。無論、失われた名建築すべてを再生させることは不可能だ。周囲の景観や街区の中心を担う用途が既に著しく変貌を遂げているようなケースでは、名建築の存在が却って都市景観の調和を損なう原因ともなりかねない。
しかし、わが国近代建築の父・コンドルの代表作として、オフィスビルの原型を示すもとのして、丸の内オフィス街の原点として――「三菱一号館」は、さまざまな価値を備えていた建物だった。それが"本来あった場所"に"当時の姿で"再生するのならば、丸の内という次代の街づくりの成り立ちとして"場所"の持つ意味の大切さを広く一般に再認識されることにもつながるはずだ。
「三菱一号館」の復元工事は、平成18年(2006)の着工、同21年の竣工をめざして行われる予定だ。その翌年には、これもまた竣工当時の姿を取り戻した赤煉瓦の「東京駅」の復元工事が完了する。そこに現出する空間が、どのような記憶を呼び覚まし、どのような価値を創出することになるのか――これから数年、胸躍らせ、想像の翼を広げて、丸の内地区を注視することになりそうである。

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柱廻りのディテール

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玄関と内部鉄骨階段

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写真家
増田彰久氏(ますだ・あきひさ)

1939年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。大成建設を定年退職後、「増田彰久写真事務所」を主宰。早稲田大学講師。日本写真家協会、日本写真協会、日本旅行作家協会会員。『写真集 明治の西洋館』、『建築紅花青蝶図』、『歴史遺産 日本の洋館』全6巻、『日本のステンドグラス』他、藤森照信氏との名コンビによる「建築探偵」シリーズなど著書多数。最新刊に『写真な建築』(白揚社)、『棟梁たちの西洋館』(中央公論新社)。

稀有なる邂逅――私と「三菱一号館」

私が西洋館の撮影をライフワークしたきっかけは、解体直前の「三菱一号館」を撮影したことでした。当時、建設会社勤務だった私は、仕事でずっとピカピカの新築物件を撮っていたわけですが、初めて赤煉瓦の建物と向かい合ってみて、現代建築にレンズを向ける時よりもはるかに新鮮なときめきを感じました。東京のど真ん中にこんな建物が在るということにも改めて驚き、東京に残っている赤煉瓦の建物を片っ端から撮ろうと思い立ったのが原点です。
ちょうど"明治百年"がクローズアップされていた頃で、新年の新聞特集が、故・村松貞次郎先生による"保存したい明治の西洋館"という内容の記事を掲載していました。西洋館を研究されている建築史家の方がいらっしゃることがうれしくて、早速撮影した写真を抱えて先生をお訪ねしました。周囲には赤煉瓦や西洋館などに目を向ける人などほとんどいない時代でしたから、先生は「援軍来たる!」と非常に喜んでくださった。それから、いろいろな建築についての知識や取材の方法などを教えていただくようになりました。"建築探偵"の藤森照信先生と出会ったのも村松先生の研究室。「一号館」と村松先生......どちらも私にとって得がたい出会いだったと言えます。
以後、全国の西洋館を1000棟以上も撮影してきましたが、すでに失われたものも多い。ですから、「三菱一号館」復元のニュースには、ことさら感慨深いものがあります。なくなった建物と再会できるというのもまさに稀有なる出来事ですからね。この時代に生きていることの幸運を多いに感じます。その一方、脳の内で期待と不安が交錯するのもまた事実です。復元物はよほど原形を研究して忠実にやらないと、どうしても白々しさというか違和感がぬぐえない場合がある。明治村に移築復元されたライトの「帝国ホテル」などはその典型で、話を聞いてみると、わかっているのに変えてしまった部分等があると言うんですね。まあ、あれは"建っている場所が違う"というのが決定的なのですが。

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昭和43年、取壊直前の三菱一号館

復元に当たる方々が"情報公開"を柱として打ち出したのは素晴らしいと思います。今は、メディアの時代なのですから、マスコミ任せにしないで、自ら復元事業をドキュメントとして記録し、どんどん世に問うようにしたらいいでしょう。忠実にやるというのなら、どこまでをやるかを明らかにする。煉瓦はどこで焼いて、石はどこのものを使うのか。例えば「復元検討委員会」の議論から、建物の工事~竣工までの経緯をライブでビデオ化しておくというようなアイデアもあるのではないでしょうか。もうそこから、建物の歴史は始まっているのだと思うんですよ。
根っこの部分をきちんとしておけば、新しい復元建築にも必ず相応の価値が生まれます。建築とそれを取り巻く都市は、そもそも社会を豊かにするものでしょう。西洋館の建築写真も、単なるノスタルジアに止まらず、社会と結びつき、社会の意識を変えることで、初めて意味を持つものだと私は考えているのです。
新しい「三菱一号館」が竣工し、またカメラを構えて丸の内に立つ日を楽しみにしています。(談)

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発行/白揚社
A5半、384貢
定価/3,675円(税込)

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発行/白揚社
A5半、280貢
定価/2,940円(税込)

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