三井本館

オフィスマーケット 2000年5月号掲載

この記事をダウンロード

※記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1998年に国の重要文化財に指定された「三井本館」は、1929年に竣工された。その後の建造物がこのビルを手本とするほど、デザインと施工の面で秀でた存在だった。街区再開発事業に含まれることになり、現在の街並みとの調和が協議されている。最新の高層ビルと古い建物の共存について考えてみる。

memory_mitsui-honkan_01_linetouka.jpg

建築技術の精華――アメリカ新古典主義建築の水準を今に伝える

平成10年に国の重要文化財に指定された「三井本館」(東京都中央区、昭和4年建設)は、日本におけるアメリカ型本格的オフィスビルの典型的な事例である。様式はアメリカン・ボザール・スタイルの新古典主義に則り、その技術的な先駆性、構造の堅固さ、機能的な造形美が、専門的な高い評価を獲得している。
地上七階・地下二階、建築面積4,559平方メートルの大規模な建設計画が立案されたのは大正12年、首都圏に大きな被害をもたらした関東大震災直後のことだったという。震災による旧三井本館(明治35年竣工)の被害は補修可能な範囲だったが、当時の三井合名会社(現・三井不動産)は市街復興の先駆けとなる決意をもって新ビルの計画に着手したのである。東京復興のシンボルとなる近代的かつ大水準の建築設計・施工技術を導入することが要求された。
三井合名社長三井八郎右衛門高棟氏の打ち出した「震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」という命題と、理事長團琢磨が掲げた三つのデザインポリシー「壮麗(grandeur)、品位(dignity)、簡素(simplicity)」を共に実現するべく、設計監理をニューヨークのセント・レジス・ホテル、J.P.モルガン銀行、ピッツバーグのメロン銀行等の名建築で知られるトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所に依頼。構造設計はワイスコッフ・アンド・ピックワース社、施工はジェームズ・スチュワート社が担当した。
工事日数964日(2年8か月)、総事業費2,131万円。当時、一般的なビルの建築費は平均して坪当たり200円程度だったというが、三井本館においては坪当たり約2,200円が費やされた計算になる。

memory_mitsui-honkan_02_linetouka.jpg花崗岩仕上げの外壁を飾るコリント式の大列柱、吹き抜けの大空間を構成する一階営業室内のドリス式円柱群、要所に施された装飾――三井本館において特長的なのは、これらの意匠が決して威圧感にはつながらず、むしろ快い安定感を醸し出している点だろう。

当時の世界最高といえる技術を集約した三井本館は、日本建築史上きわめて重要な位置を占めるといえる。いわば「三井本館の建設そのものが日本建築界にとっての"学校"だったのだ。同館は建設当時のみならず、その後長きにわたってわが国の建築界にデザイン・施工の両面で大きな影響を与え続ける存在であった。

街区再開発事業――歴史の保存と地域の活性化を調和・融合させる

三井グループの本拠地として、この建物は1階に三井銀行(現・さくら銀行)と三井信託銀行の営業場が置かれ、4~7階に三井合名(前出)、三井鉱山、三井物産等の本社事務所が置かれていた。
ところで、銀行といえば、建設当時のこんな話が残っている。三井銀行の営業金庫および三井信託の保護預庫として使用される地下大金庫用に特注した円形扉(米モスラー社製)は重量が50トンもあり、重量制限のため石造りの日本橋(1911年完成)上を運ぶことが許されなかった。そこでやむなく新常盤橋際まで船で運んで陸揚げし、深夜、現場まで運んだのだという。
この扉は本館地下1階において、今に至るまで現役で活躍している。

「この建物を構成するもの一つひとつが、みんな"歴史"につながっています。また、構造的には鉄骨鉄筋コンクリート造りで柱の総数が140本――9,600トンもの鉄骨、470トンの鉄筋が使用されているのですが、こうした"構造"それ自体も文化財としての歴史的な価値を持っていると見なされるわけです」

三井本館街区再開発事業の推進に携わるビルディング運用部 室町計画推進室長 巻島一郎氏の説明によると、重要文化財としての指定に際しては、以下のような"保存部位に関するプライオリティ"が設定されたという。

「①外壁・外装、②1階の吹き抜け部分、③地下1階の金庫」。

この三点については最重要の価値があると考えられるので、補修・改変に際し文化庁の許可が必要となる。ただし、他の部分に関しては、70年にわたる管理内容と保存への前向きな姿勢が評価され現状維持の要請にとどまった。
三井不動産では、東京都が新たに創設した「重要文化財特別型特定街区制度」の適用第1号として、三井本館と調和する高層ビル新館の建設計画を打ち出すことで、都心部再開発における「保存と開発の両立」に先鞭をつけようとしている。具体的には、三井本館と新館中層部の壁面位置、建物の稜線・形状を揃え、連続する回廊とデザインの調和によって、歴史的風格の保全と新たな賑わいの創出を実現させるという。また、現状のまま保存する本館内部には、「近代建築博物館(仮称)」などの文化施設を新たに導入し、公開性をより高めていくことも検討している。
とはいえ、歴史的建造物の維持・修復費は、平均して新築費用の3倍のレベルに達するという厳しい現実もある。補修・管理にかかるコストの問題、また、保存対象が現行法令上課題となるケースが多いなど、文化財の保護には多くの課題がつきまとう。歴史の保存と地域の活性化を調和・融合させる事業を各地で活発化していくため、いっそうの規制緩和・法整備の推進が望まれている。

着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

大正12年(1923) 9月、関東大震災。11月、三井本館の建設が企画される。
大正15年/昭和元年(1926) 5月、三井本館着工。
米クラーク大学で初の液体燃料ロケット実験に成功。
昭和2年(1927) 米の飛行士リンドバーグが大西洋横断飛行に成功。
上野―浅草間に日本最初の地下鉄が開業する。
昭和3年(1928) 日本で普通選挙法による初の衆議院選挙が行われる。
英の医学者フレミングがペニシリンを発見する。
昭和4年(1929) 3月、三井本館竣工。

memory_mitsui-honkan_03_linetouka.jpg

鈴木博之(すずき・ひろゆき)

1945年東京生まれ。
東京大学大学院工学系建築学専攻教授。

三井本館開館60周年記念誌の監修を担当し、同誌に「三井本館の歴史的意義」を執筆。
著書に『建築の世紀末』『建築の七つの力』(芸術選奨文部大臣新人賞)『夢のすむ家』『東京の[地霊]』(サントリー学芸賞)『都市へ』など多数。

「歴史」を残す街づくり――望まれる社会的な支援体制

三井本館の開館60周年記念誌を監修した東京大学教授の鈴木博之氏は、歴史的意義を持つ建築物の保全においては"所有者の意志"が最重要の条件になる――と指摘する。

「保存のための補修費用、日常的な維持費用といった負担を乗り越えるため、該当する建物の所有者には保存への強い意志が要求されます。実際、多くの側面で"保存するための苦労は、すべて持ち主が引き受けざるをえない"というのが、日本の文化財保護の現状ですから」

企業利益のみを優先させるならば、スクラップ&ビルドによる単純な再開発計画を採ったほうが有利なのは言うまでもない。しかし、三井本館の保存を決意した所有者(三井不動産)にとっては、不動産業としての誇りと、三井グループ発祥の地に建つシンボリックな名建築への深い愛着があった。

「戦前の一時期に明治生命館や第一生命相互館といった名建築が相次いで誕生した背景には、それに先立つ三井本館などの建設における新構造法や建築の近代化・合理化等の体験学習が大きく影響しています。そうした意味からも、この建物を残す歴史的・都市的な意義は大きいと思います」

今後、価値ある建築物の保存を推進していくためには、すべてを所有者と行政の問題に帰するのではなく、一般市民による社会的な支援体制の確立が望まれると鈴木教授は言う。

「名建築保護に対する市民の意識が高まり、所有者のみならず周囲が協力しあって保存を進めるような仕組みができる。それが理想ですね。そうすれば、法整備も進み、行政ももっと動くでしょう。保存されるべき建物は社会全体で引き受ける――そうした機運を高めることが大切ではないでしょうか」

memory_mitsui-honkan_05_linetouka.jpgもちろん、都市計画を進めるにあたっては、名建築の「保存」のみが一人歩きすることはできない。一般市民による支援体制づくりを考える上でも、地域の再開発による活性化がまず前提となる。専門家による裏付けのもとに、文化財保護行政と都市計画・建築行政のギャップを埋めていく動きも必要とされるだろう。

「さまざまなハードルをクリアして"残す"ことを前提としてしまえば、古い建物にもそれに見合った活用法は必ずあるんです。ニューヨークのマンハッタンなどでも、最新の高層ビルと古い建物が調和しながら共存しています。新しい街並みの中にはっきりと歴史が息づいている――三井本館のある日本橋室町地区の再開発が、新しい街づくりのモデルケースとなるよう期待しています」

memory_mitsui-honkan_04_linetouka.jpgmemory_mitsui-honkan_07.jpgmemory_mitsui-honkan_06_linetouka.jpg

この記事をダウンロード