日本工業倶楽部会館

オフィスマーケット 2000年7月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

「日本工業倶楽部会館」は1920年に竣工。「近世復興式」と呼ばれる様式を採用した。倶楽部のシンボルとして保存の声が高まったが、文化庁と協議の末、「一部保存」という結論になった。どこを保存しどこを新しくするのか、苦渋の決断とその裏側についてお聞きした。

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明治期様式建築からの脱却――成長する日本経済の象徴として

大正9年に竣工した日本工業倶楽部会館ビル(登録有形文化財/現在、改修工事中)は、その3年前に実業家三百二十九名を集めて結成された日本工業倶楽部の所有になるもので、第一次大戦後の好景気に支えられて急成長したわが国工業界のシンボルとして、長くその歴史的な価値をとどめてきた。
設計は横河工務所。建物の外観は松井貴太郎、インテリアは橘教順と鷲巣昌が担当した。建築史的に見ると「近世復興式」と呼ばれるスタイルに分類され、重厚な古典的様式を踏襲しつつも新傾向の幾何学的構成によるゼツェッシオン様式が随所に加味されている。加えて、柱と梁の軸組構造を露出させるなど、当時広まりつつあったアメリカ型高層オフィスビルの特性も見られ、明治の古典的様式からの脱却が図られていた大正期建築の様相を映し出すものとなっている。内装は当時の経済界の明るさを象徴するような華美にあふれ、各室の装飾に見るべきものが多い。このように歴史的・建築的に高い価値を保持する日本工業倶楽部会館だが、竣工後ほどない大正12年に起こった関東大震災で深刻な被害をうけ、修復されて現在に至っているという経緯がある。

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そして、このことが、数十年を経た後の同会館ビルの運命にも影を落とした。震災直後に建設された建物の多くが現在の基準に耐えうる耐震性を保持しているのに対し、このビルは、耐震性、安全性の面での使用・保存が極めて困難――という現実に直面せざるを得なかった。

「会員の方々としても倶楽部のシンボルである建物をそのまま保存したいという希望は強かったと思いますが、今後、倶楽部の目的に沿った通常使用に耐えうるかどうかという点が第一ですから......。結局、登録文化財の申請を出した文化庁の担当者からもアドバイスをいただきながら、敷地を所有する三菱地所と当倶楽部が協議して、永楽ビルの新築計画に組み入れた会館の"一部保存"という結論を出したわけです」

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社団法人・日本工業倶楽部総務部の福島晃庶務課長の説明によると、そこに至る過程で倶楽部のメンバーによる「建築委員会」と並行して「歴史検討委員会」(座長・伊藤滋慶応大学教授)が組織され、保存すべき範囲を明確にした上で現実的な打開策を摸索しようという試みがなされたという。近代の名建築保存に理論的な裏付けを与えるという意味でも、注目すべき動向といえる。
日本工業倶楽部会館は旧建物のほぼ三分の一を完全保存し、残る部分は"復元"されることになった。完成予想図を見ると、建物は現在の姿のまま三十階建て高層ビルと一体化したかたちとなる。耐震性・安全性の面で総体保存は不可能という判断がある以上、やむをえぬ結論といえる。少なくとも「保存」に向ける所有者側の意志は明確に表明されたというべきだろう。いずれにせよこのケースが、建築物の保護をめぐる試行錯誤の一例として記憶されるべき重要な事例となることは間違いない。

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着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

大正6年(1917) 実業家329名により日本工業倶楽部が設立される。
大正7年(1918) 4月、日本工業倶楽部会館着工。
第一次世界大戦が終結する。
大正8年(1919) ベルサイユ講和条約調印。
アメリカで禁酒法が成立する。
大正9年(1920) 11月、日本工業倶楽部会館竣工。
アメリカで世界初のラジオ定時放送が開始される。

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シャンデリアが照らす壮麗な床面が特徴の2階大会堂

難関とその克服――名建築保存の技術的課題

三菱地所株式会社 設計監理事業本部
丸の内設計部長

岩井光男(いわい・みつお)

新たに日本工業倶楽部会館と"併設"される「丸の内永楽ビル」の設計責任者として「歴史検討委員会」のメンバーにも名を連ねた三菱地所の岩井光男氏は、同会館ビルを"保存"することの困難を次のように語る。

「歴史検討委員会では、1・安全性と構造、2・歴史的価値(意匠)、3・事業性と諸制度......という三つの切り口から検証作業を綿密に行いました。このうち、特に問題となったのは1と2、すなわち歴史的価値(保存の意義)と安全性の確保をいかにすり合わせるかという点でした」

建物の存在そのものに重要な歴史的価値を認めるという立場に立てば、望ましいのは言うまでもなく全面保存である。ところが、関東大震災前に竣工し、被災後も抜本的な耐震対策がとられないできた日本工業倶楽部会館の場合、単独での補強・改修工事そのものが不可能なのだという。

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天井の曲面が寛ぎの空間を構成する3階大食堂内部

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1階広間より大階段を望む。自然の採光と照明のバランスが見事

「躯体保存されることになった建物の西側部分(大会堂・大食堂)と、反対側のセンター・東側部分が接している場所に大きな亀裂が存在していると考えていたのですが、今回、調査した結果、それが裏付けられました。おそらくは震災後の補修のときからこうだったのでしょう。特に被害の大きかった部分なのですが、それから数十年の間、この建物は割れ目を貼り合わせた状態で存在してきたわけです。全館を保存しようとしても、そもそもこれでは曳家することさえできない......」

そればかりではない。明治期の様式建築よりの脱却を目論んだ大正期建築として、同会館ビルはさまざまな構造的独自性のもとに成り立っていた。部分によって従来の木造工法と新しい洋風工法の折衷が見られる。また、戦時中か戦後の補修の結果なのか......大食堂の天板がベニヤ張りであることなども判明したという。まさに「刻まれてきた歴史の重み」が「歴史の証人たる建物の存続」を脅かすという皮肉がそこにあった。
歴史検討委員会は、最終的に十通りのモデル案をまとめあげた。
そして、実現不可能なものやメリットの少ないものを排しつつ「外観と内装の一部を再現して全体を新築」「建物の三分の一に免震工事を施して保存、残りを再現新築」「曳家免震工事により建物の全てを保存」という三案に絞り、最終的に「建物の三分の一に免震工事を施して保存、残りを再現新築」が採られた。これによって、単純な新築と比較し、コスト、工期とも大きく影響を受けることになったという。

「免震工事を施した保存部分と復元部分、そして耐震構造の高層ビル部分を、いかに整合性のある"一つの建物"として成立させるか、当然、非常な困難が伴います。しかし、それを結論としたことで、このプロジェクトは"丸の内再開発"というにとどまらぬ、より大きな意味を持つことになったと感じています」

設計当時の図面等は一切残っていないという。しかし、技術陣はあえてこの難関に挑戦する――新生・日本工業倶楽部会館完成の暁には、未来的な高層ビルを背景に、大正年間の竣工時そのままの美観が丸の内の和田倉通りに現出するはずだ。

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3階来賓室全景。重厚な外観と対照的に内装は華美を極める

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3階来賓室に設置された大鏡。壁面の装飾も意匠を凝らしている

日本工業倶楽部 歴史検討委員会 構成員

座長:伊藤滋 慶應義塾大学教授(都市計画)
委員:岡田恒男 芝浦工業大学教授(建築構造)
   鈴木博之  東京大学教授(建築史)
   高橋志保彦 神奈川大学教授(建築計画)
   前野まさる 東京芸術大学教授(建築史)

   松岡勝彦 東京都生活文化局コミュニティ文化部長
   山 俊一 東京都都市計画局(開発企画担当)参事
   石井峻 千代田区都市開発部長
   [瀧見浩之]

   新野耕一郎 社団法人日本工業倶楽部常任理事
   長島俊夫  三菱地所株式会社 丸の内開発事業部長
   岩井光男 三菱地所株式会社 一級建築士事務所 丸の内設計室長

オブザーバー:亀井伸雄 文化庁 文化財保護部建造物課主任 文化財調査官
アドバイザー:西村幸夫 東京大学教授
       横河健   横河設計工房主宰

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