「旧新橋停車場」復元駅舎

オフィスマーケット 2003年7月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

日本生命の創業70周年記念事業の一環として、1963年に竣工。一つのビルの中にオフィスと本格的な劇場を同居させる試みに当時の人々の耳目を驚かせる出来事だった。建築学会賞を受賞した曲線で構成された幻想的な意匠を紹介する。

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芸術と建築を総合した名匠

村野藤吾(むらの・とうご)

明治24年(1891)
佐賀県唐津市生まれ。

大正 7年(1918)早稲田大学理工学部建築学科卒業。
渡辺節建築事務所に入所
昭和 4年(1929)村野建築事務所開設。近代的技法と、伝統的素材を活用した独自の表現で、戦前から日本近代建築を代表する傑作を生んだ。

昭和59年(1984)没

代表的作品

昭和 3年(1928)南大阪教会
昭和 6年(1931)近三ビルディング
昭和 7年(1932)加能合同銀行
昭和10年(1935)大阪そごう百貨店
昭和12年(1937)宇部市民館
昭和29年(1954)広島世界平和記念聖堂
昭和33年(1958)大阪新歌舞伎座
昭和35年(1960)京都都ホテル佳水園
昭和41年(1966)宝塚カトリック協会
昭和45年(1970)兵庫県立近代美術館
昭和58年(1983)宇部全日空ホテル

日本建築家協会会長。日本芸術院会員、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。
1967年文化勲章受章。日本芸術院賞、日本建築学会賞など他多くの賞を受賞。

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昭和38年の竣工当時のビル全景。手前には改築前の帝国ホテルが見える

"時代"に抗う意志――志を体現した異色の建築空間

日本生命日比谷ビルは、日本生命保険(相)の創業70周年記念事業の一環として昭和34年(1959)7月7日に着工され、昭和38年8月31日に竣工した。工事期間中はまさに激動の時代だった。国際社会は緊張の度合いを強め、昭和38年11月には、アメリカのケネディ大統領暗殺事件が起きている。一方、国内は"60年安保"の時代であり、高度成長による物質的豊かさの代償として、公害問題などが指摘されるようになってきた頃だ。"ご成婚""三種の神器""柏鵬時代""太平洋ひとりぼっち""名神高速道路""黒部の太陽"――華やかな話題にも事欠かなかったが、人々は、世情に染み込んだ殺伐とした印象を拭い去ることができないでいたはずだ。
このビルは、いわばそうした"時代の地滑り感"に抗う存在だった。一つのビルの中に生保会社のオフィスと座席数1330の本格的な劇場を同居させるという試みは――日比谷公会堂という先例があったにせよ――それが、純粋に一民間企業の事業であるという点において、当時の人々の耳目を驚かせるに足る出来事だったろう。建築計画の原点は、首都・東京に建設する自社ビルを単なる営業拠点にとどめず、日本の芸術・文化発展への一灯としようという理想であり、モノだけではない心の豊かさを提供しようという高い志であった。
設計は日本芸術院会員で当代を代表する建築家・村野藤吾(1891~1984)。村野の回想によると、自ら建築に一家言ある日本生命社長(当時)の弘世現氏は、当初、ストックホルム市庁舎の建物をイメージしていたそうだ。日比谷の地に近接するライト設計の旧「帝国ホテル」――昭和45年(1970)改築――との調和を念頭に置いたものと推測される。しかし、村野は「帝国ホテル」が維持面・機能面で限界に来ていることを社長に説き、今後、百年の使用に耐えつつ、品位と風格を備えた建物とするため、どのような材料が適当であるかを施工の大林組と入念に検討した。その結果、基本構造はSRC造で外壁に石材を張るカーテンウォール方式とすることが決定された。石材は岡山産の万成石(御影石に似た淡紅色の花崗岩)、表面仕上げは"ビシャン叩き"――伝統的な石造建築の工法で、コンクリートにモルタル接着した石材へさらにモルタルを塗り、表面を特殊なハンマーで丹念に叩いて削っていくもの――

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現在の日本生命日比谷ビル全景

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加えて、村野は、建物の縁部分を浅い江戸切にすることで微妙な陰影を添え、外観に温か味と雅味を与えるよう心を配った。
こうして竣工したビルは、地上8階、地下5階、延床面積4万2878平方メートル。オフィスへ出入する社員と観劇客を同じ空間内に違和感なく調和させるという困難な問題を克服するため、1階部分を外部に開放したスタイルは、今日の眼で見ても街区活性化の先駆的な事例として評価できる。完成まで4年もかかったのは、金融引締に伴う設備投資抑制に関連して政府当局から工事延期が要請されたためだという。これもまた"時代"と対峙する"建築"の歴史を物語る一齣である。また、その頃は、コンクリート打ち放しといった実用性重視の建築が隆盛を極めており、坪当たり約40万円(当時)という石張の豪華な建築に対し、世間のみならず若い建築家などからも批判の声が上がった。しかし、村野は「百年の寿命」と建築目的の「表現」という旗幟を鮮明にして、いささかも動じることがなかった。

その後、"壁"構築で"引越公演"となったベルリン・ドイツ・オペラによる日生劇場のこけら落としが大成功を収め、その存在意義が明らかになると建物への評価も変わり、昭和39年(1964)度の建築学会賞を受賞している。"文化の一灯"という志を体現した少年層対象のミュージカル無料招待公演「ニッセイ名作劇場」の事業が継続される中、築後30年に達せんとする平成4年(1992)には第2回BELCA賞ロングライフ部門の栄誉にも輝いた。それからさらに10年――建設者と建築家の高い理想は、今後数10年の後までも脈々と受け継がれていくに違いない。

竣工前後 ―― 歴史と世相

昭和34年
(1959)
4月 皇太子夫妻(現天皇・皇后)のご成婚パレードTV中継
7月 日本生命日比谷ビル着工。
昭和35年
(1960)

1月~ 新安保条約反対の運動が激化。
この年、テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の"三種の神器"流行語に。
6月 訪米の池田首相(当時)がケネディ大統領と共同声明。
8月 ドイツで"ベルリンの壁"が構築される(平成1年解体)。

昭和37
1962)

2月 東京都が世界初の1000万都市となる。
8月 「マーメイド号」が日本初の太平洋単独横断に成功。
この年、"キューバ危機"起こる。

昭和38年(1963)

6月 黒部川に"黒四ダム"が完成する。
8月 日本生命日比谷ビル竣工。
10月 ベルリン・ドイツ・オペラによる日生劇場のこけら落とし公演。

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京都工藝繊維大學 教授
工学博士

竹内次男氏

異質なる空間の調和――"表現"を貫いた孤高の闘い

日本生命日比谷ビル内にオフィス空間と共存する日生劇場。その舞台総面積は、583.5平方メートル、座席数は1330である。内壁面はガラスモザイク張り、また、ホワイエ(周り壁面)には大理石の一種である白色テッセラーが貼られ、天井は硬質石膏板に阿古屋貝を鏤めた豪華なものだ。設計者の村野藤吾は「事務空間は、主として合理的なものが基本」であると同時に、劇場部分が"日本生命"という企業にとって「建築上の重要な目的」であり、そして「凡て、日本生命としての表現にかかることであろうと思われ、設計上、その点を充分に留意した」と書いている(「日本生命日比谷ビルの設計について」)。

「日本生命としての表現」といういかにも村野らしい口調に、彼がこの構造的にも空間的にも異質なるものを総合した建物――オフィス兼劇場――に注いだ情熱が感じられる。

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村野藤吾自ら引いた図面。鉛筆の線をぼやかせているのがわかる

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大学の資料館に保存されている村野藤吾に関する資料の数々

「日本生命日比谷ビルは、日本近代建築の傑作であるのみならず、アーキテクト/アーティストであった村野藤吾という人物が立ち上げた"芸術作品としての建築"の達成です。ここには"様式"から飛翔した"村野流"としか言いようのない表現が結晶しています」

こう語るのは、村野が遺した膨大な建築設計図面を研究している竹内次男教授である。"古典様式"には拠らぬ独特のクラシックな香気。緻密な計算をファジイ化するフリーハンドな印象。それが"村野流"なのだろうか。確かに、言葉では説明しきれない何物かが村野作品には備わっている。長く村野の建築模型製作に携わった荻島東海夫氏によると、村野の仕事はまずイメージ図から始まったそうだ。「夢の中で見ているような絵を描かれて、それを私達が油土で作って」(「遼遠の火」)、それを村野が土を捏ねながら整形していく。この油土による模型は必ず作られた。「図面より土を」とよく言っていたそうだ。竹内教授も、村野が図面を引かせるときに「あまりきっちり描くな、ぼやかせ」「イメージは揺らぐ、その揺らぎを描け」と門下生たちに指示していたことを指摘する。

「しかも、出来上がったものをさらにいじるんですね。村野の図面を見ると、トレーシングペーパーに引かれた鉛筆の線を、指で擦ってぼかしてあるものがたくさんある。日生劇場の図面もそうです。天井や壁面の微妙な陰影はそこから生まれるのでしょう」

京都工藝繊維大學の美術工藝資料館は「村野・森建築事務所」から委託された建築設計図面を数千点所蔵する。そのうち、日本生命日比谷ビル関連の図面は実に800点にも上るという。村野のこだわり......いや、闘いがそこから読み取れる。当初「児童劇中心の劇場を」とだけ聞いていた村野は、いよいよ実施設計段階に入ろうという直前、ベルリン・ドイツ・オペラ招聘を聞かされた。寝耳に水である。以下に村野の文章を要約して記す。

「劇場としての表現もそれに相応しいものにしなければならない。(中略)本格的なオペラ劇場にできないまでも、できるだけのことをしたいと思った。(中略)急ぎニューヨークのメトロポリタン・オペラ・ハウス、カーネギー・ホール、ミラノのスカラ座、シアトルやリオの劇場等を見学して、変更すべきものは変更し(中略)、漸くにして柿落しに漕ぎ着けた。最後まで心配したのは音響だった」

日生劇場の油土製模型は200分の1といった普通の規模ではない。20分の1という巨大な模型を小田原で作り、縦割りにして2台の大型トラックで日比谷の現場に運んだという。村野は模型の内部に潜り込み、自身で精力的に土を捏ねて形を変化させていった。最も心配された音響についても、この模型で幾度も実験が繰り返された。

「村野という人は決して"天才"ではなく"努力の人"でした。また"観念"ではなく、リアルな現実を重視した。私たちは、出来上がった建物だけでなく、その創作過程を示す図面から新しい視点を見出せないかと研究を始めたわけですが、村野のような対象には特に有効なアプローチだと感じます」

建築にはさまざまな制約がついて回る。また、建物は建築家の手を離れた後は自分の生を生き始める。800枚の図面の中に表現されようとしていた"日生劇場"は、現在ある姿とは異なるのかもしれない――「永遠の未完成、これ完成である」とは宮澤賢治の言葉だが、村野の"表現"もまた、揺らぎ続けた図面の内にこそ完成形を示すものなのかもしれない。竹内教授たちの今後の研究に期待したい。

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劇場2階席より1階を見下ろす

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劇場1階席と曲面で構成された壁

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劇場2階と3階をつなぐステンレススチールを使った螺旋階段

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劇場1階ロビーから劇場客席に昇る大階段

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客席天井。色付の石膏に2万枚といわれる阿古屋貝を貼り、幻想的な雰囲気を生み出している

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正面見上げ。淡紅色の万成石を使用

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壁面のオリエント風窓

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ビル外面の特徴的な意匠の柱

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ビル外面の列柱

文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦、小野久美子

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