パレスサイド・ビルディング

オフィスマーケットⅢ 2005年6月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

皇居近くに建設された「パレスサイド・ビルディング」は、2棟の直方体ビルと2棟の円筒状ビルが連結する珍しい構造になっている。1966年に竣工し、外観の強烈なインパクトと新しい人の流れを生み出した。機能面やテナント満足度で高評価を保つ秘密を探ってみる。

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御濠端のマザーシップ――高度成長期を象徴した近代主義建築の名品

パレスサイド・ビルディングは、その名の通り、皇居の濠に面して建つ大型オフィスビルである。東西の全長約200メートルという巨躯を誇る長方形のビル2棟が、雁行するようにスライドして並び、両端を締める高さ50メートルの白い円筒コアが、これもまた2本東西にそびえる。

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全面ガラス・カーテンウォールと、各階水平方向に日差しを遮るサンコントロール・ルーバー

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ビル開館当時から屋上に置かれたアルミブロンズの鳩

地下6階・地上9階。塔屋3階。敷地面積1万1275平方メートル。建設面積8596平方メートル。延床面積11万9625平方メートル。鉄骨鉄筋コンクリート造。二つの棟と二つのコアはそれぞれ分離された構造で、大規模な地震に際しては各々が独立した動きをして互いに影響しない耐震設計となっている。設計は「日建設計」(竣工当時は「日建設計工務」)の林昌二氏。施工は「大林組」と「竹中工務店」が共同で担当した。
コア部分には、エレベーター、トイレ、階段等の共用スペースが組み込まれている。これらは一般的にビルの中心に配置されるケースが多いが、三角形の変形敷地だった事情もあり、この建物では独立したコアが二つ存在することとなった。しかし、むしろこの設計者の発想は、ビルの外観に鮮烈なインパクトを付与したのみならず、新しい人の流れを創り出すことで、オフィスビルとしての機能面においても多くの利点をもたらすこととなった。
現在「毎日新聞社」本社を始めとする多数のテナントが入居する本館部分外観は、建設当時は革命的といわれた15ミリ厚・3.2×2.4メートルの全面ガラス・カーテンウォール。これに日除けのルーバー、窓の高さに同期して漏斗形の接続部を備える雨樋といった実用的要素が優れて意匠的に作用し、独創的な美しい景観を作り出している。
白亜のコアと本館部分のコントラストと併せ、武骨にして優雅、合理的にして感性に訴えかける表現――こうしたアンビヴァレントな魅力が、この建物のいたる所に息づいている。
東西両端4ヶ所のシャフトは茶褐色の煉瓦で積まれている。ここに使用された総数60万個の煉瓦はこの建築のために新規開発されたもので、当時の三木武夫通産相直々に「P・S(パレスサイド)特殊煉瓦」と命名された由来を持つ。また、ビル屋上の何か所かにはアルミブロンズの鳩たち(一色邦彦・作)が羽を休めている。かつて新聞社が緊急の原稿を運ぶ手段としていた伝書鳩を、平和のシンボルとしての意味も込めて配したのだ。

また、内部のショッピングモールは、地上1階の中央廊下と地下1階コンコースの吹き抜けを結ぶ階段は"夢の階段"の名で呼ばれる独創的なデザインの構造物である。構造部材をなるべく見せないで、階段が雲に浮かんでいるイメージを描いたものという。ネット状に組んだステンレス線の交点にアルミ鋳物の段板を止めて吊る方法で、開館当時、ヨーロッパの建築誌でも紹介されて世界的な注目を集めた。これらのエピソードの一つ一つが、敗戦を経て再出発した日本を象徴する建物であったこの建築の意義を物語っている。
平成11年(1999)8月、パレスサイド・ビルディングは、戦後のオフィスビルとして唯一「モダニズム建築20選」に選出された。近代建築の歴史的価値の保存・継承のため「日本建築学会」が組織する国際的NGO「ドコモモ」――本部・オランダ――が選定したもので、理由として「日本の近代建築を象徴しうるものである」「装飾で建物を美しく飾るのではなく、線や平面、円筒などの組み合わせによって美しいビルができる」点が挙げられた。
さて、皇居の濠端という立地に地下6階(大規模な印刷所と駐車場を入れる必要があった)まで掘り下げたビルは、例えて言えば、大海に浮かぶ船のような状態なのだという。その甲板上に巨大な地上部分が載っているわけだが、周到な構造設計とデザインの妙、開放感のある居住性は、逆に母なる船に抱かれていることの安心感を呼び覚ましてくれる。大航海時代の冒険者たちが、それぞれの船を信頼し命の拠り処としたように、"御濠端のマザーシップ"はまさしく戦後日本の成長をシンボライズする存在だった。築後40年に達しようとする現在も、1日あたり6000人の在館者と2万人を超える来訪者を迎える。今後、21世紀の大海原を舞台に、パレスサイド・ビルディングの航海はいっそうの長きに渡ることだろう。

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1階の中央廊下と地下1階コンコースの吹き抜け空間を結んだ「夢の階段」。空中に浮かんだように見える

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竣工前後 ―― 歴史と世相

昭和39年
(1964)
  • 7月 パレスサイド・ビルディング着工。
  • 10月 東海道新幹線開業。東京オリンピック開催。
昭和41年
(1966)
  • 3月 地下鉄・東西線の竹橋―中野間開通。
    (翌月、竹橋―荻窪間が直通運転となる)
  • 10月 1日、パレスサイド・ビルディング開館。
    (同日、東西線が大手町まで延長される)
  • この年 ビートルズ来日。

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株式会社毎日ビルディング
取締役営業部長

土屋 繁氏

21世紀を見すえた大規模複合ビルの先駆

東京メトロ東西線の竹橋駅に直結した地の利、基準階天井高2.9メートルという居住性の高さ。日本の大規模複合ビルの先駆となったパレスサイド・ビルディングには、現在、100社を超えるオフィス、ショップ、飲食店などが入居している。

「当ビルは内外観の建築美ばかりでなく、建築技術、館内の機能、維持管理などの面でも高い評価を受けています。平成4年(1992)に第1回BELCA賞――ロング・ライフ・ビルディング部門――に選ばれたこともそのことを証明するものであり、維持管理面を担当する者として非常に誇りとするところですね」

平成17年(2005)年4月より改組・発足した「毎日ビルディング」の土屋繁氏はこう語る。

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パレスサイドビルは1999年8月、20世紀の建築界で国際的な潮流となった「モダニズム建築」20選に選定された

BELCA賞とは、社団法人「建築・設備維持保全推進協会」が制定したもので、パレスサイド・ビルディングは、デザイン、構造が優秀な上、築後20年以上経過しながら、美しく機能的に維持管理・保全されていることが高く評価され、栄えある第1回受賞に輝いた。
このビルは、日本におけるスーパーブロック計画(複数の企業による共同企画方式)の最初期の事例であり、「毎日新聞社」と、戦後日本のアメリカ文化受容に多大な影響を与えた「リーダーズ・ダイジェスト社」、「東洋不動産」の3社が、「三和銀行」(当時)の協力で共同出資して建設された。当初より皇居と高速道路に囲まれたエリアを"完結した一つの街"として立ち上げるよう構想され、この共同化が、維持管理の分割境界線を設けない一体的総合管理によるロングライフ化実現につながったものという。「BELCA NEWS」60号(平成11年(1999)5月)には「維持保全の管理体制は、人的な組織と業務分担が詳細に規定された中で家族的なまとまりができている。(中略)大規模建築における維持保全の一つの理想的関係が成立しているといえる」とある。

「変形敷地を有効利用するために発想されたものといいますが、本館部分とコアの分離はビル設備の維持保全面でも大きな効果をあげています。それに、ちょうど工業化が急発展する時代を背景に、アルミニウム、ステンレス、プレキャストコンクリートといった耐久性の高い部材が随所に用いられており、これもビルの老朽化を防ぐ要因となっています」

土屋氏のこの指摘も興味深い。特注は極力避けて市販品を組み合わせたとはいうものの、確かに当時としては最新の建築素材を大量に用いてある。思えば、建物の規模とあいまって、パレスサイド・ビルディングは次の世紀を見すえた建築の壮大な実験場でもあったのだ。また、新聞社の印刷部門を擁する建物として、基準50VA/㎡(8階100VA/㎡)の電気容量を備えている。そのため、IT時代を迎えても、通信インフラ整備などのリニューアルで十分に先進性を保ち、入居テナントのみならず業界でも高い評価を受けている。

「先日実施したアンケート調査でも、テナントの満足度が非常に高いことがわかりました。予め21世紀を見すえて建てられたこのビルを大切にし、より長期にわたる顧客満足につなげていきたいですね」

少し以前にコア部分は外壁の全面塗り替えを行ない、竣工時の輝きが復活した。同時に内部のエレベーターホールやトイレ、エスカレーターなども最新の機能を持つものに整備された。現在も5年計画によるリニューアルが進行中という。日々進化し続ける複合ビル――それもまた、当初の器を生み出した設計思想があってこそ可能なことだったろう。

高度成長という"時代"の奔流に呑み込まれるように姿を消した「三菱一号館」だったが、今、名建築の保全・再生の機運が高まる"時代"を背景に、都市街区の再構築事業には事業主と社会の双方向的な対話が不可欠との認識がそこにある。もちろん、近接する「東京駅」の復元など他のプロジェクトとの協調も大きなテーマとなるだろう。
"再建"という方法による"復元"、そしてそれによる"記憶の再生"――こうした在り方は、今後、もっと検討されてもよいはずである。無論、失われた名建築すべてを再生させることは不可能だ。周囲の景観や街区の中心を担う用途が既に著しく変貌を遂げているようなケースでは、名建築の存在が却って都市景観の調和を損なう原因ともなりかねない。
しかし、わが国近代建築の父・コンドルの代表作として、オフィスビルの原型を示すもとのして、丸の内オフィス街の原点として――「三菱一号館」は、さまざまな価値を備えていた建物だった。それが"本来あった場所"に"当時の姿で"再生するのならば、丸の内という次代の街づくりの成り立ちとして"場所"の持つ意味の大切さを広く一般に再認識されることにもつながるはずだ。
「三菱一号館」の復元工事は、平成18年(2006)の着工、同21年の竣工をめざして行われる予定だ。その翌年には、これもまた竣工当時の姿を取り戻した赤煉瓦の「東京駅」の復元工事が完了する。そこに現出する空間が、どのような記憶を呼び覚まし、どのような価値を創出することになるのか――これから数年、胸躍らせ、想像の翼を広げて、丸の内地区を注視することになりそうである。

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株式会社日建設計
名誉顧問

林 昌二氏

新世代のエネルギーが生んだ記念碑的作品

「私としてもさまざまに思い出深い建築です。なにしろ、あれだけ大きくて、しかも複合施設であるという建物はそれまでの日本にはなかった。しかも、それを皇居の御濠端と高速道路に挟まれた制約のある土地に建てなければならないわけですから、まさに難解なパズルを解くようなものでした」

1960年代後半には建築物の高さ制限に関する法規が改正され、しだいに超高層ビルも出現していくことになるが、このビルは旧法規に則った最後の大規模ビルとして位置づけられる。設計の主眼は「都市景観と都市美の象徴となるような格調高い近代建築」「皇居の松の緑、濠という環境に調和し周辺の美観を引き立てるもの」「地域社会に貢献するもの」の3点に置かれたという。また、敷地にはアントニン・レーモンドの傑作「リーダーズ・ダイジェスト社」東京支社ビルと、日本―アメリカの懸け橋となった国際的彫刻家イサム・ノグチゆかりの庭園が存在した。これらを排除して新ビルを建てるという計画に、林氏ら若い設計チームは「身震いするほどの緊張と取り組みがい」を感じたという。

「堆積した軟弱シルト層と硬い礫層を地下6階まで掘り下げる問題を、いかにクリアするかというところから挑戦が始まりました。東京の地盤の中に巨大な空間を埋め込む――いわば泥海の中に船を浮かばせるようなもの。その上で地上部分の構造設計に移るのですが、時間がなく、当初は単純に方形のビルを二つ並べた設計案を提出せざるを得ませんでした」

確かに、ビルの建設計画披露パーティーの写真に写っている"完成予想図"にはコア部分がない。その姿のまま新聞にも発表された。だが、初案を提出してから林氏はなおも考え続けた。二つの躯体と二つのコアタワーを配するという結論に達したのは、なんと地鎮祭も終えた後のことだった。それから、関係者を説得して回り、最終的にはこの案が受け入れられて、パレスサイド・ビルディングは現在私たちが見る姿となったのである。

「ギリギリでしたね。このままでは"一生の不覚"になるからやらせてくれ――と。若かったからできたともいえます。自分やチームも若かったが、我々の会社も、クライアントも、日本経済そのものも、新しいものを創り出そうという意気に燃えていた。1960年代とはそういう時代でした」

林氏の著書にある回想によれば「当時最も若いメンバーを組織したチームによる徹夜の連続で、超短期間の設計が実現した。今日から見れば、"骨格と装飾の分離"(スケルトン+インフィル)、段階的設計法(ファースト・トラック)などの先進的試みが勇敢に行なわれたことになる」。氏は当時38歳。新世代の建築家たちのエネルギーの燃焼が、それまでになかった先駆的な建築作品を現出させた原動力だった。

「過去の建築作品を見るにつけ、先人たちがそこに注ぎ込んだ営為の総量――智恵と労力――が並々ならぬものだったことを強く感じます。建物の記憶は建物が継承しなければ消えてしまうのです」

取材中、林氏自身の口から"記憶""継承"という言葉が幾度も発せられたことが印象深かった。評価が高かったレーモンド作品を乗り越えつつ、自らの建築によってその記憶を継承するという青年建築家・林昌二の意志がパレスサイド・ビルディングには込められている。イサム・ノグチの庭園にしても、日本のビル建築として初の試みとなった屋上緑化によって記憶の継承と都市への還元が図られた。先述した鳩の彫刻にも"遊び心"にとどまらず、苦労と愛情を注いで伝書鳩を飼育していた新聞社の担当者らの記憶の一端を後世に伝えようとの思いが秘められているのだ。
ならば"わが国モダニズム建築の傑作"といった様式論をひとまずおき、この建物を"昭和"から"平成"へと流れてきた時代の記憶そのものとして捉え直す視点も必要だろう。生命ある空間、今まさに生きている建築として、パレスサイド・ビルディングは存在しているのだから。

文:歴史作家 吉田 茂

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