三信ビルディング

オフィスマーケット 2001年11月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

日比谷にある「三信ビルディング」は、1929年の竣工時モダン都市を象徴する建物だった。当時としては珍しく、低層階をアーケード商店街が貫く構造を持っていた。美しいアーチ型天井や曲線を活用した内装は斬新な印象を人々に与えていた。豊富な写真で昭和初期のモダニズムを振り返る。

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三信ビルの吹き抜けになっている1階から撮影。三信ビルの特長は、この建物の内部を貫くアーチ型天井で12列によって成り立っている。 事務所ビルとは思えない豪華な空間である

「様式」の「表現」の調和――"折衷主義"が示す到達点

営団地下鉄三路線のターミナルとなる日比谷駅近く、銀座・大手町・霞ヶ関といった地区とも隣接している。現役のテナントビルとして存在をアピールするパンフレットが「トップクラスのビジネス環境」と自ら謳う通り、三信ビルディングの立地はオフィスビルとして申し分のない条件を備えている。加えて、東西約96メートルにわたって連なる地上八階建て(地下二階)の威容......一街区をまるごと占める煉瓦張り(内部構造は鉄骨鉄筋コンクリート造)の重厚な外観は、周辺の街並みに深い落ち着きを与えている。
とはいえ、昭和4年(1929)の竣工当時、このビルは相当に斬新な印象を人々に与えたはずである。施主は旧三井財閥系の三信建物(昭和37年に三井不動産に吸収)、施工は横河工務所(現・横河建築設計事務所)。この両社がパートナーとなって世に問おうと考えたのは、機能重視のオフィスビル単体ではなく、おそらく「モダン都市を構成するパーツ」としての建築物だった。

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日比谷公園側から見た三信ビル外観。現在、ビルの右側部分が外壁補修工事中のため、囲いで覆 われていた

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三信ビル竣工時に正面から撮影した貴重な写真。今はこのアングルから撮ることができない (写真提 供:横河建築設計事務所)

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低層部分にアーケード商店街を縦貫させ、それ自体が一つの街(ストリート)であるような建築。そうしたコンセプトに基づき、工務所の誇る俊才・松井貴太郎が設計にあたった。若くして「東京銀行集会所」や「日本工業倶楽部」といった建築作品で評価を確立した松井だが、やはりこの三信ビルこそ、四〇代半ばの円熟期に彼が心血を注いだ代表作といえる。
当時の建築界は、洋の東西を問わず「アール・デコ」の潮流に席巻されていた。1930年前後、アメリカ・ニューヨークには直線を活かした装飾が彩る高層ビルが続々と建設され、建築における機能美と芸術美の両立がテーマとなりつつあった。松井も当然この流れを意識しただろう。三信ビルの外装もアール・デコの様式を基調とし、外壁の五層にわたって整列する採光性を重視した三連窓が端正な美の世界を演出している。しかし、同時に、大胆に角を丸めた建物全体のフォルムは「様式」に囚われない「表現」への希求を力強く主張するものだ。直線と曲線を違和感なく共存させる魔術――それを実現したのは、設計者の類い稀なバランス感覚とそれを裏づける精緻な技術だったろう。

さらに内部に足を踏み入れると、開放感にあふれる吹抜けが訪問者の目を驚かせる。アーチを描く十二のヴォールト天井には(現在は失われたが)かつて星座の十二宮がガラスモザイクで描かれ、華やかなシャンデリアがあちらこちらに光輝いていたという。
一方、建築当時のまま残る石造の床は、直線ではあるがどこかフリーハンドを思わせる格子模様。また、洗面所の凝った装飾、鳥が木の実や葉をくわえた柱ごとの彫刻――「様式」と拮抗しつつ調和を模索する「表現」が、強烈な香りを放つ花のように、現在もこのビルの至る所で咲き誇っている。分類には諸説あるだろうが、ひとまず三信ビルは、昭和戦前期に現われたわが国独特の「折衷主義」による建築といわざるをえない。だが、ここに見られる「折衷」のなんと自由なことか。むしろ日本の建築が到達した一つの頂点と呼ぶことこそがふさわしい。平成2年(1990)年に"還暦"を迎えたとき大がかりな補強工事が施されたこの建物は、"古希"を過ぎた今も相変わらずハイカラな紳士の風格を湛え、建築の良き時代を我々に語り伝えてくれる貴重な存在である。

着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

昭和3年

(1928)

  • 7月、三信ビルディング着工。
    (ゆるい地盤のため、基礎工事だけで10カ月に及ぶ難工事となる)
  • 7月、第9回オリンピック・アムステルダム大会で日本が初の金メダル獲得。

昭和3年

(1928)

  • 9月、ペニシリンが発見される。
  • 10月、ニューヨーク株式市場大暴落。世界恐慌となる。
  • 12月、三信ビルディング竣工。

昭和5年

(1930)

  • 1月、三信ビルディング開業。
  • 4月、日米英がロンドン海軍軍縮条約を締結。
  • 10月、特急「燕」号が、東京―神戸間を8時間55分で結ぶ。

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2階から見たアーケード部分。建てられた当時はそれぞれの柱間の天井に星座を表すモザイクが配され、 シャンデリアが吊り下げられていた

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2階柱部分のアップ。各柱の根本部分には、鳥をかたどった彫刻が施され、 昭和初期のモダニズムが今でも息づいている

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皇居側入口。アール・デコを基調とした重厚な 建築美は当時のままである

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2階のエレベーターホール。外国のホテルを思わせるような格調の高さを印象づけている

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エレベーターホールの両脇に設けられた洗面台。 残念ながら現在は使うことができない

コラム ビル前の道路が傾いた!
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(写真・文 冨岡畦草 昭和34年6月27日撮影)

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現在の三信ビル壁面のアップ写真。 竣工当時は、3段の階段は無く地盤沈下によって新たに造られた

ここ日比谷の三信ビル(右側)は、わが国初の民間建築設計事務所をもった横河工務店の俊英・松井貫太郎の円熟期の作で、昭和5年に完成した。現在でも、2階まで吹き抜けの長大なアーケード街は、周辺のサラリーマンに人気のコーナーとなっている。ところが、昭和34年、このビルと道を挟んだ向かい側で大規模なビル工事が始まると、突然路盤が沈下して、都電の終点が危険にさらされるという事態が起きた。応急の処置で、電車は通れるようになったものの、人も車も、段差のついた道を"傾いたまま"の通行を強いられた。
とにかく、当時は日本中が経済成長に夢中で、どこもかしこもフル操業。下町の工場地帯でも地下水汲み上げによる地盤沈下で海抜ゼロメートル以下の地域が出現して大騒ぎとなった。

文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦

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