司法省赤れんが棟(旧司法省庁舎)

オフィスマーケット 2002年1月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

法務省が「中央合同庁舎第6号館」として使用している「赤れんが棟」は、1895年に「旧司法省庁」として竣工した。内部は、煉瓦壁を木材と漆喰で覆った和洋折衷の造りになっている。昭和と平成に明治の佇まいを残しながら復元工事を行った。原点を大切にした改修について紹介する。

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近代国家「日本」の飛翔――「官庁集中計画」の壮図

東京・霞ヶ関は、国会議事堂をはじめ多数の政府機関が集中するわが国の中枢である。合同庁舎として建設された高層ビル群の中、あたかも木漏れ日を浴びて翼を休めている巨鳥のように、威厳に満ちた赤煉瓦建築が建っている。
現在、中央合同庁舎第6号館として法務省が使用している「赤れんが棟」は、明治28年(1895)に旧司法省庁舎として竣工した。政府が西欧諸国との不平等条約改正・国会開設などの重要案件を抱えていた明治19年当時、内閣に設置された臨時建設局(初代総裁を外務大臣・井上馨が兼任)は、ドイツから著名な建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンを招聘して、西洋建築による官庁集中計画の立案を委嘱した。

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エンデ&ベックマン第一次計画案透視図(日本建築学会蔵)

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赤レンガ棟外観全景

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先に来日したベックマンによる当初の計画は、パリやウィーンの都市計画を参考に、現在の霞ヶ関、日比谷とその周辺一帯を西洋建築の庁舎を多数配置し、街区全体に放射状道路、広場、公園、記念碑などを整備する壮大なものだったという。しかし、ベックマンの帰国後にエンデがまとめた完成案は、政情の不穏や地盤などの立地条件を考慮して大幅に縮小されることになった(第一次計画案として残された司法省庁舎の透視図を見ると、実際に建てられたものより階数が1階多く、屋根周りの装飾もより豪華である)。

ともあれ、この設計案を基におよそ7年の歳月をかけて完成した司法省庁舎は、旧大審院(後、最高裁判所)や日本銀行本店本館の建物らと並んで、明治期を代表するわが国の建築作品として重要な位置を占めるものとなった。 実施設計・工事監理を担当したのは、ドイツ留学でエンデに学んだ河合浩蔵である。
ネオ・バロック様式による堂々たる煉瓦積の外観は、当時のドイツ本国における同種建築を凌ぐ偉容を誇った。天然スレートで葺かれた屋根は多様なパターンで構成され、中央部と四隅部分で急勾配の鋭角を強調する。赤煉瓦の壁、白石の軒蛇腹、黒いスレートによる直線的な構成。華麗さを際立たせるドーマー窓・棟飾りなどの装飾的な要素。そこには、近代国家としての飛翔を期する日本という国家の意気込みと、それを正面から受け止め、実現しようとする建築家の理想が共に込められていた。
旧司法大臣公邸を併設する内部は、煉瓦壁を木材と漆喰で被う落ち着いたたたずまいで、これもまた和魂洋才を尊しとした「明治」という時代を強く体現している。

着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

明治21年

(1888)

  • 10月 旧司法省庁舎着工
  • 11~12月 外相・大隈重信が条約改正案を各国公使に手交する。

明治23年

(1890)

  • 7月 第1回衆議院・貴族院議員選挙が実施される。
  • 11月 凌雲閣(浅草十二階)、帝国ホテルが開業する。

明治27年

(1894)

  • 8月 日清戦争が始まる。

明治28年

(1895)

  • 4月 日清講和条約(下関条約)締結。独・仏・露による三国干渉が起こる。
  • 12月 旧司法省庁舎竣工

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現在大食堂は復原され、資料展示室として使われている

甦った明治の赤煉瓦建築――"原点"に立ち帰る試み

この建物は、碇聯鉄構法(煉瓦壁内に平鋼と丸鋼を埋め込む工法)による補強をはじめ、木梁や外壁飾り石を金具で煉瓦と定着させる工法などによって堅牢さを高め、関東大震災にもほとんど被害を受けることがなかった。しかし、昭和20年の空襲により、煉瓦の壁面と床を残して焼失してしまう。
昭和23年11月から戦災復興院営繕部により復旧が行われ、同26年に完了したが、物資の不足などの理由から外観、内装とも大きく変化せざるを得なかった。建物の外壁は高さを2メートル低くし、バルコニーの石造列柱を二面分撤去、また、屋根は勾配を緩くした瓦葺きである。「昭和の改修」と呼ばれるこの工事で完成した建物は、その後約50年間にわたり法務省本館として利用されてきた。

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昭和の復旧工事の内装を保全した階段ホール

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竣工時写真。当時は司法大臣の大食堂として使われていた

やがて、隣接地に高層ビルとして計画された中央合同庁舎第6号館A棟の着工に先立ち、建物の現状調査が実施され「原則的に赤れんがの構造体を使用し、現在地で創建当時の外観を再現して再使用する保存復原の方向」で赤れんが棟を再度改修することが決まる。平成3年1月に着工され、同6年8月にほぼ完了した「平成の復原」は、この名建築に創建時の姿を回復させる――いわば建築の"原点"に立ち帰る試みとなった。
材料・工法については、コスト・耐久性を考慮して現在の最新技術も駆使された。屋根と尖塔部は天然スレートの模様葺き(一部緑青銅板葺き)、「昭和の改修」時に撤去された北・東のバルコニー柱は、長さ5.5m/最大直径70cmの本物の石で復原、外壁上部の蛇腹と壁は擬石と煉瓦で復原。内部については、既存の木造屋根・床を撤去、各階に鉄筋コンクリートのスラブを新設して耐震性、防火性を向上させるとともに、設備・内装は執務環境の向上やインテリジェント化に呼応した現代的な内容に一新した。また、階段ホールは、構造的な困難のほか、明治・昭和・平成の各時代が重なり合う建物の歴史を重視して前代のインテリアを保全したという。2階バルコニーのクロスヴォールトなども昭和復旧時の保全部分である。
こうして往時の偉容を回復した「赤れんが棟」は、現在も法務省のオフィスとして使用されている。同時に、唯一残っていた創建時の写真を基に内装を復原した司法大臣公邸大食堂を展示室に活用し、法務図書館も併設するなど、新たな用途にも供されるようになった。なお、復原に際し、ベックマンの官庁集中計画案が石張りのパターンでサンクンプラザに表現され、来訪者は往時の壮図を回顧できる。
厳密には「再建」である。しかし、その価値は揺るぎない。本格的なドイツ・ネオバロック様式建築であり、都市景観上貴重で歴史的価値が高いとの理由から、平成6年に重要文化財の指定を受けている。

取材・文:歴史作家 吉田茂
写真:三輪晃久写真研究所

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