聖徳記念絵画館

オフィスマーケット 2004年4月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1918年に建造された「聖徳記念絵画館」には明治天皇ゆかりの美術品が収められている。同時期の近代建築と異なり、建物自体が一種の聖堂のような雰囲気を持つ。戦後は所蔵絵画の修復や壁画の改修だけでなく、防犯・防水などのシステム工事も行われた。現代と歴史とを共存させる方法に迫った。

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絵画館全景

受け継がれる"時代の記念碑"――先人が思いを込めた荘厳なタイムカプセル

このシリーズに「都市の記憶」というタイトルを冠するにあたり、私たちは"記憶"という概念に、ある程度の積極的な意味づけを付与していた。
例えば、山から切り出され、都市に運搬された無生物である石材が、次第に何らかの記憶を喚起する装置として機能し始める。それは、建築者・所有者・利用者が、意図する意図せざるにかかわらず、建物それ自体が受容し、やがて表出されることとなった同時代の"記憶"である。その場所で雨風に打たれ、常に生きる人と共に在った建築作品自身に刻み込まれてきた"記憶"――その語る声に少しでも多く耳を傾け、ささやかながら紙面を通して読者に伝えていく――これまで、"実業"を中心とする用途に供されてきた建物を多く紹介してきた理由も、いわばそこにあったと言える。
しかし、明治神宮外苑「聖徳記念絵画館」は、都市に残るそれら記憶の断片とはいささか性格の異なる"記憶"を語る存在である。

「聖徳記念絵画館は外苑中最も主要なる建造物にして、明治天皇、昭憲皇太后御在世中の御偉績を絵画に表現し、洽く衆庶の拝観に供し、悠久に広大無辺の聖徳洪恩を偲ばせんとするものなり」

昭和12年(1937)に上梓された「明治神宮奉賛会」編『明治神宮外苑志』にはこうある。そして、同書の巻頭に掲げられた創建間もない「聖徳記念絵画館」のモノクロ口絵写真を目にすれば、恐らくは誰もが軽い衝撃を受けるのではないだろうか。
現在の青山通りに面した「外苑」の青山門から一直線に伸びる幅員32.7メートル、延長403メートルの直通道路。その果てに聳える「絵画館」の威容は、絵画を展示する建物というより、まさしく聖堂あるいは記念碑にほかならない。現在、周囲の景観は少しく変貌を遂げているものの、予め与えられた「絵画館」の存在理由は創建当初より一切変わることなく脈々と受け継がれている。
つまり、この建築は"明治天皇の治世"という一時代を記憶し、悠久の未来へと伝承する使命を与えられた、生まれながらの"記憶装置"なのだ。
大正7年(1918)募集の設計競技により、「工手学校」出身の若手で当時大蔵技手だった小林正紹の案が東大出身の建築家たちをおさえて1等を射止めた。応募総数は156点だったという。ただし、当選の図案は「意匠斬新且つ優秀」と評価されつつも、多少の修正が必要とされ、翌大正8年8月に「明治神宮造営局」が決定した要領を基に、東大大学院で鉄筋コンクリート構造学を専攻した小林政一が実施設計に当たったとされる。

建築中の大正12年(1923)に関東大震災に遭遇したが、躯体がほとんど完成していたため大きな影響はなかった。竣工は大正時代最後の年となった15年10月。地階約2500平方メートル、主階約2550平方メートルの鉄筋コンクリート造。中央ドーム頂点までの高さは地上約32メートル。

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エントランス

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展示室(日本画)

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外壁と外部階段には岡山県産の花崗岩――万成石――を貼り付け、内部の壁面と中央ドーム床部分などには岐阜県美濃赤坂産を中心とする天然大理石を使用して一部をタイル貼りとしてある。画室内部の壁面は欅材の羽目張り、床も欅材の寄木張りで荘重な絵画との調和が見事に保たれている。一般の博物館や美術館とは異なり、明治天皇・昭憲皇太后の事蹟を描いた大画80点のみを陳列するという建物の性格上、側光室は設けず、各画室共に採光は全てガラス天井からの頂光とした構造がとられた。

原案設計者の小林正紹は、外国様式を直写せずに明治時代を代表する新しい様式を創造してみたかったとし、「繊細な装飾などをつけた、日光廟のようなものであってはならない。優美であると共に何よりも、雄渾、壮大にして粗末に流れる程で簡潔、素朴に、明治大帝の御聖徳の偲ばれるものであることを重大な條件とした」(雑誌『中央美術』大正12年)と述懐している。中央ドーム、三連アーチの開口部から東西に約112メートルの翼を広げた建築の存在感は、こうした意図を十分に体現しているといえよう。

だが、そうしたあまりにも明確な建設意図を超越して「絵画館」はようやく自らの内に刻み込まれた記憶を語り始めているように思える。壁画全80点の完成を見て「絵画館」が開館したのは竣工後10年を経過した昭和11年(1936)。名句「降る雪や明治は遠くなりにけり」を収録した俳人・中村草田男の第一句集『長子』が出版されたのがこの年であった。
その後の戦災で周囲の建物が多く失われるか深刻な被害を受ける中、2発の焼夷弾を浴びながらも「絵画館」は奇跡的にほとんど無傷のまま残った。さらに皇太子殿下御成婚の都民祝賀会、60年安保の大集会と、自らも数々の歴史の舞台となりつつ、世界史的にも稀有な近代日本の形成を担った「明治という時代」を内包して大正・昭和・平成と流れる歳月を見つめてきた。
平成15年(2003)7月、「絵画館」は「明治神宮」内苑の「宝物殿」「桃林壮」と共に東京都選定歴史的建造物となった。緑あふれる都民のオアシス「明治神宮外苑」に聳える壮厳なタイムカプセルは、先人たちの残した未来への大いなる遺産として、今後、いっそうその価値を高めていくことだろう。

竣工前後 ―― 歴史と世相

大正7年
(1918)
  • 6月 「明治神宮外苑」地鎮祭が挙行される。
    「聖徳記念絵画館」設計案を一般募集。
  • 11月 第一次世界大戦終結
大正8年
(1919)
  • 10月 「絵画館」着工。
    「帝国美術院」第1回美術展覧会開催(帝展)。
大正12年
(1923)
  • 2月 「丸ビル」が竣工する。
  • 9月 関東大震災で「絵画館」建設工事が一時中断する。
    (敷地内に罹災者収容のバラック・病院等を仮設)
大正15年
(1926)
  • 8月 「日本放送協会」(後のNHK)が設立される。
  • 10月 「絵画館」竣工。
    「明治神宮外苑」(絵画館・野球場・相撲場 等)竣功奉献式が挙行される。

昭和11年
(1936)

  • 2月 「2・26事件」が起こる。
  • 4月 「絵画館」壁画全80点完成、記念式を挙行(翌年、本公開)。
  • 7月 幻に終わった第12回オリンピック大会開催地が東京に決定する。

建物概要
名称聖徳記念絵画館
住所新宿区霞ヶ丘町1-1(明治神宮外苑)
起工大正8年
竣工大正15年
全壁画完成昭和11年
日本画40枚(初期)
洋画40枚(後期)
構造鉄筋コンクリート造
規模地上約32メートル
東西の長さ約112メートル
南北の長さ約34メートル
地階面積約2500平方メートル
画室面積約2247平方メートル

「多様化する名建築保全の試み――保全強化を企図した改造」

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明治神宮外苑 聖徳記念絵画館
主幹

田村 行氏

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"半永久的な"保存を使命として――たゆまぬ補修・改良の努力

「明治神宮外苑」というと、それが戦前の国家事業として造営されたものとイメージする人が多いのではないだろうか。しかし、実際には戦前・戦後を通じ、本質的には民意による運営を旨としてきた空間である。
「外苑」「絵画館」といった一連の造営事業の中心となったのは、明治天皇崩御2日後の大正元年(1912)8月1日に「東京商工会議所」で会合した在京有志である。そこで委員20名が選定され、男爵・渋沢栄一、同じく男爵で当時東京市長であった阪谷芳郎、「東京商工会議所」会頭・中野武営が代表して"帝都東京"に天皇陵を造営することを政府に請願した。だが、天皇の遺志で陵地はすでに京都の伏見桃山に決定しており、これは容れられなかった。
そこで改めて、神宮奉祀の議が起こり、大正4年5月、代々木に国貴を以て「明治神宮」が創設されることとなり併せて総裁に伏見宮貞愛親王をいただき、貴族院議長・徳川家達を会長とする「明治神宮奉賛会」が組織され、一連の事業がスタートすることとなった。青山通りに面した「外苑」正面入口に建立された「明治神宮外苑之記」石碑には次のようにある。

「ご葬儀が執り行われた旧『青山練兵場』の現在地に、皇室のご下賜金をはじめとして、広く全国民の献金と真心のこもった勤労奉仕により、十余年の歳月をかけて、大正15年(1924)年10月に『明治神宮外苑』は完成した。/苑内には、天皇・皇后お二方のご一代のご事蹟を、有名画家が描いた80枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂『聖徳記念絵画館』を中心に、野球場、競技場その他多くの優れた運動施設が設けられた。これは、ご仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛錬の場として、或いは遊歩を楽しむ人々の憩の苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相まって造成されたもので、永く後世にのこされるものである――」

かつて48平方メートルあった「外苑」の総敷地面積は、東京オリンピックの競技場及び高速道路等に譲渡したため現在、およそ30万平方メートルとなっている。田村行主幹は以後の経緯について「確かに『明治神宮』及び『外苑』の存在は戦前において国家と切り離せないものでした。ただし『外苑』は、あくまでも民間有志の手による献金を中心として造営されたもの。戦後、政教分離を命じたGHQ(連合軍総司令部)による"神道指令"、それに続く「宗教法人法」の公布によって『明治神宮』も他の宗教同様に一般の宗教法人となり、現在に至っています」
「都市公園法」で「都市計画公園」と規定されてはいるが、「外苑」の所有者は宗教法人「明治神宮」である。名高い銀杏並木146本の整備は「明治神宮外苑」庭園課と東京都が協力して行う。もちろん、「絵画館」を始め苑内にある諸施設の運営・管理、また修復事業も「外苑」の仕事である。

「戦後の大きな事業としては、傷みが激しかった絵画数十点の修復を昭和59年(1984)からの5か年計画で行ったことが挙げられます。それに続いて、平成元年(1989)年に壁画の防護と永久保存を目的とする展示室の改良を実施し、延べ250メートルの壁画全面にミュージアムガラスのスクリーンを設置。また、従来の自然採光に加えて特殊証明も導入しました」

教科書や歴史書でおなじみの数々の名画は、それ以前まで手を触れられるほど間近に拝観できたが、現在は壁画面から2メートル隔てた所に特製強化ガラスによるシールドが設置されている。とはいえ、一般公開という開放性と壁画の防護・保存という相反する命題を二つながらクリアするため、ギリギリのところで選択された"改良"と理解できる。
壁画自体の修復には1億300万円、画室の改造には総工費3億5500万円が費やされたという。それ以前にも、老朽化や投石などによって破損したガラス天井の補強・防水工事や防災・防犯システムの導入、腐食した窓枠のアルミサッシ化など、多くの修復・改良努力が続けられてきた。

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正面入口のヨーロッパ風に設計された門扉

その一方、正面入口にヨーロッパ風に設計された門扉を追加し、入口上部ステンドグラス(高さ12.5メートル、幅2.1メートル)を新しいデザインのものに交換するなど、建物全体の美観を維持するための工事も実施されている。
古いものを古いまま残すことの意義は無論であるが、建築の用途と周辺の景観との調和などに配慮しつつ、資金を投じて建物を若返らせようとする所有・管理者の地道な努力はそれ以上に評価されるべきであろう。諸外国から特別に取り寄せた色ガラス片で、光が美しく乱反射するように造作されたステンドグラスの輝きは一際美しい。

「この建物の建築意図・使命を踏まえるなら、理想は"永久保存"ということになります。私たちは、できる限りそれに近い"半永久的な形"でその理由を実現していきたいと考えているのです」

田村氏の話によると「絵画館」の来訪者は、現在、年間で約3万人前後。当然、拝観料による収益のみでの維持は不可能である。「外苑」を訪れても「絵画館」の中にまで足を踏み入れる人は少ないということだろう。だが、明治の40数年、そして現在に至る140年の日本の歩みを肌で感じることのできる静寂な空間が、ここには厳然と存在しているのだ。
花崗岩貼りの重厚な階段を降り、冬の青空に映える中央ドームの白い丸屋根を振り仰いで再訪を期す。冷たい空気の中で、若かった明治の日本と現在のそれの姿を知らず引き比べている自分がそこにいた。

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王政復古(天皇政治の復活)

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東京御着輦(天皇皇居に御到着)

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富岡製紙場行啓(皇后、皇太后製紙場にお出まし)

文:歴史作家 吉田茂
写真:明治神宮外苑 聖徳記念絵画館所蔵

書籍のご案内

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都市の記憶
美しいまちへ(発行/白揚社)

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