帝国ホテル本館

オフィスマーケットⅢ 2009年6月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

1923年の開業当日に関東大震災に遭った「帝国ホテル本館」。 軽微な損害で済んだことで強靱な構造を世に知らしめる結果となった逸話を持つ。1970年の改築で現在の姿となり、別館・東館とともに匠の技と現代の先端技術が融合した施設となった。改装時の工夫と美しい内装を紹介しよう。

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三代にわたる歴史――首都の"迎賓館"に受け継がれる伝統

日本初の本格的洋式ホテル「帝国ホテル」の誕生は、明治23(1890)年11月3日まで時を遡る。建設の発案者は当時の外相だった井上馨。西洋諸国に対して遜色のない賓客応接の施設を建設すべく、渋沢栄一、大倉喜八郎らの財界人に協力を呼び掛け、宮内省の出資も得て明治20年に「有限責任帝国ホテル会社」が設立された。
鹿鳴館に隣接する地に竣工した初代建物は、ネオ・ルネサンス様式の木骨煉瓦造で3階建(客室数60、内スイート10室)。位置的には現在の「帝国ホテルタワー」が建つ場所に当たり、皇居外堀の水面にその壮麗な姿を映していたという。設計は、我が国建築界の"父"ジョサイア・コンドルの愛弟子であり、ドイツに留学して当時海軍省にいた渡辺譲。軟弱な地盤に留意し、建物の外壁煉瓦に石造に似せた漆喰を塗り固めるという工夫を施した。
その後、二十数年を経て、本館の老朽化と利用者の増加により新築された新館が、フランク・ロイド・ライト設計の名高い"ライト館"である。着工は大正8(1919)年、竣工は同12年。なお、旧本館はライト館の竣工を待たずに火災で焼失している、鉄筋コンクリート及び煉瓦コンクリート複合構造の地上5階地下1階建、客室数は一挙に270室へと増加した。ライト館は、大谷石やスクラッチタイル、テラコッタ等、さまざまな素材を生かした独特の美を身にまとい、建築史的に見ても非常に重要な建物であった。また、開業当日に起こった関東大震災に際しても、軽微な損害で済んだ強靭さを誇ったことでも知られる。
その後、昭和の半ばに建設された東館・別館と共に、40年の長きにわたって首都の"迎賓館"であり続けたライト館であるが、老朽化とホテル空間に対する時代の要請が変化したこともあって、昭和40年代に建替えが決定された。しかし、その建築的価値を惜しむ声が当時から強く、エントランス部分を明治村に移築・復元するという異例の措置が採られ、現在も往時の偉容を偲ぶことができる。
現在の本館は、大阪万博が開催された昭和45(1970)年の竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上17階地下3階の規模で客室は644を数える。設計は、聖徳記念絵画館や学士会館などで知られる高橋貞太郎。東館・別館も手掛けた高橋が最晩年に精魂を傾けた傑作である(付記:奇しくも高橋の中期の作品である日本橋高島屋が、今年、百貨店建築として初の重要文化財指定を受けた)。また、構造設計には霞が関ビルも手掛けた鹿島建設副社長の武藤清が当たり、柔構造高層建築の先駆けともなった。
"人類の進歩と調和"をテーマに掲げた万博の理念を建物に具現化するという構想のもと、高層部のアルミカーテンウォール構造は"進歩"、十字形の特徴的な外観は周辺建築物と違和感のない"調和"を表現したものだという。もちろん、耐震対策も周到に行なわれ、特殊配筋によるスリット壁や、箱形鉄骨柱、現場でのエレクトロスラブ溶接法といった新技術が惜しみなく注ぎ込まれた。この結果、マグニチュード8超の大地震にも耐え得る画期的な建築が実現したのである。電力系統や空調、給排水システムも当時の最新鋭技術によって整備された。
この本館と、昭和58(1983)年に東館・別館跡地に竣工した高層複合ビル"インペリアルタワー"(地上31階地下4階、現・帝国ホテルタワー)を合わせて、現在の「帝国ホテル」は成り立っている。タワーは361の客室とオフィススペース、ブランドショップ&レストラン街を一体として機能する極めて先進的な空間である。

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明治23年の開業当時の帝国ホテル全景。

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昭和30年ごろのライト館全景。

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開業間もない頃の談話室。

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ライト館正面。この部分は現在、明治村(愛知県犬山市)に移築保存されている。

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株式会社帝国ホテル
施設部長

佐藤 誠 氏

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オールドインペリアルバー。ライトが設計した旧帝国ホテルの面影を今に伝える。

すべてはゲストのために――スローな大改修と綿密な維持活動

現在の帝国ホテル本館は全く新規に構想・設計された建物であるが、世界に誇る名建築として名高かった"ライト館"に敬意を表する意味で、その意匠を継承する空間が幾つか残されている。たとえば、メインの大宴会場「孔雀の間」。部屋の形は異なるが、2188平方メートルという大空間の壁面に張られた孔雀のつづれ織りは、日本的な文化をよく理解していたライトのアイデアである。高層部のインペリアルフロアにもライトの意匠を再現したスイートが用意されている。
また、時代を代表する匠の技がそこかしこに見られるのもこの建築の大きな特徴だ。まず、1階メインロビー左手正面の大壁画「黎明(通称:光の壁)」は、クリスタルガラスの多彩色ブロックを使用した多田美波氏の力作。4階にある茶室「東光庵」は、日生劇場も手掛けた村野藤吾の作品である。

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大宴会場「孔雀の間」。壁面にはライト館のテラコッタ装飾が復元されている。

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世界的に著名な彫刻家・多田美波氏の作品「黎明(通称:光の壁)」。ロビーを華麗に彩っている。

「お客様に満足していただけるよう、最大限に心を砕いた空間。すでに築後40年近くを経過していますが、内装の意匠やインテリアは決して古びてはいないと思います。ただ、それを維持していくためには、人知れぬ苦労の積み重ねがどうしても必要になります」

今回の取材に応じていただいた佐藤氏はこう語る。無論、40年以前には最新鋭だった設備も、現在のニーズに応えるためには、絶え間ない改良・改修が必要とされるのは当然だ。本館の建物も実は2度にわたる大改修を施されているという。

「昭和62(1987)年からは全面的な改修(室内イメージを一新)、平成15(2003)年からは時代に合わせた内装と設備の拡充を目的とした改修を行なっています。しかし、あくまでも営業を続けながら、お客様のご迷惑にならないように気を遣いながらの工事ですので、どうしても長期にわたって少しずつスローに実施せざるを得ません。そこが悩ましいところですね」

とはいえ、空調をインダクションユニット方式に変更したり、外壁に光触媒設備を採用したりといった大掛かりな改修工事がすでに実現している。驚いたことにロビーの大階段の位置も当初とは変わっているのだという。頻繁に訪れる利用客であってもなかなか気づけない"忍びの技"である。環境面にも配慮し、中宴会場の「光の間」にLED照明を導入、また、夜間蓄熱、電気・ガス併用といったCO2削減計画も着実に進めているという。

「"すべてはお客様のため"ということです。明治の開業以来、120年にわたって国内外のお客様をおもてなししてきたわけですが、その精神は現在に至るまで受け継がれています」

ゲストの満足こそがホテルの使命――その言葉を裏づけるのが、率先して行なわれてきた数々のサービス提供である。明治の開業時から結婚披露宴が行なわれ、ライト館の時代には、ホテル内に神社を備え、式と披露宴を一体化した"ホテルウエディング"の方式を確立した。ドライクリーニング式のランドリーサービスや、ホテル内郵便局設置も明治末年の早くから開始。ディナーショーの開催やブッフェスタイルのバイキングも帝国ホテルが我国における嚆矢である。
バイキング料理は、昭和30年代に支配人だった犬丸徹三が、後の第11代料理長・村上信夫にスカンジナビアの伝統料理である「スモーガスボード」を研究させたのがきっかけと言われ、現在も本館17階のレストラン「インペリアルバイキングサール」で最高級の"食べ放題"を満喫できる。
常に最新かつベストなサービスを切り拓いてきた帝国ホテルには、アインシュタイン、チャップリン、ベーブ・ルース、ヘレン・ケラー、マリリン・モンローとジョー・ディマジオ夫妻といった国際的著名人が数多く訪れた。

「孔雀の間」をはじめとする宴会場は、国際会議場としても利用できる完璧な機能を備え、実際にも重要な会議の舞台となった。ちなみにホテル業界で初めて本格的なコンピュータ・システムを導入したのも、帝国ホテルが初めてである。

「このホテルに勤務することの誇りと、建物に対する深い愛着は、全従業員が共有するところです。できるだけ長く、この建物を維持・活用して、お客樣方のご愛顧をいただきたいと考えています」

これもまた、創業時から変わらぬ"おもてなしの心"の表われであろう。佐藤氏の力のこもった話から、時にプライベートの時間を利用してでも他のホテルを視察・研究するという"進取の気質"が伝統的に受け継がれていることがよく理解できた。

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大正時代に「孔雀の間」で開かれた盛大な結婚披露宴の写真。

文:歴史作家 吉田 茂