和光ビル(旧服部時計店本社ビル)

オフィスマーケット 2001年9月号掲載

この記事をダウンロード

※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

服部時計店の創業者が初代の時計塔を建てたのは1894年。大正期に建て替えが計画されたが、関東大震災で計画が延期、それが鉄骨鉄筋コンクリートや強靱な御影石を採用するきっかけとなった。歴代の改修では外観と構造のバランスに苦労したという。改築のポイントを伺った。

memory_wako-building_01_linetouka.jpg

"場"に導かれた女神――象徴としての街、象徴としての建築

memory_wako-building_02_linetouka.jpg

明治28年1月、服部時計店はこの時計塔を新店舗とし営業を開始した

東京都中央区銀座。この街の起源と歴史についてはここで語るまでもないだろう。ただ、東京に「文明開化の音」が高らかに鳴り響き始めたまさにその時、明治5年2月26日(西暦1872年4月3日)の大火で現在の銀座一帯が焼け野原となった事実だけは記しておこう。これを機に銀座は新たに区画整理され、災害に強い煉瓦造りの建物が軒を列ねる「帝都」の象徴として再出発することになった。輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店(現・セイコー株式会社)の創業者・服部金太郎が、その銀座四丁目の交差点に位置していた朝野新聞社の建物を買い取り、初代の「時計塔」として増改築したのは明治27年のことである。
やがて大正期の好況と建築の技術革新を背景に時計塔の建て替えが計画されたが、旧建物を解体して基礎工事にかかった直後、未曽有の大震災が東京周辺を襲う。建物にも「運」があるとすれば、誕生以前からこの建物は恐るべき強運の持ち主だったということだったのかもしれない。数年を経て工事が再開された際、構造は鉄骨鉄筋コンクリート、外壁は設計段階で予定されていたテラコッタからより強靭な天然の御影石へと変更された。落成後十数年を経て再び銀座の地が空襲で焦土と化したことを思えば、工事延期がこの建物の運命にもたらした意味は余りにも大きい。戦後の進駐軍による接収(P.X.=兵士対象の日用品・飲食物等の売店として使用)の時期が過ぎ、この建物は、服部時計店の小売部が独立した「和光」の店舗・社屋として再スタートし現在に至るが、外観はもちろん建物の主要部がほぼ創建当時のまま残る稀有な事例となった。
設計にあたったのは、旧日劇・第一生命ビルなどの建築作品で知られる渡辺仁のチーム、施工は清水組(現・清水建設)。「日本一の目抜き通り」に構える建物の様式がネオ・ルネサンスと決定されたのは、当時の服部時計店図案部長・八木豊次郎らの提案であるという。一つの建物が誕生する際には、必ずそこに発案者がいて、設計者がいる。それはそうなのだが、この建物の場合、様式・素材・用途――それらすべてが「銀座」という「場」の要請に従って(偶然ではなく)必然的に導かれたものであると感じられてならない。
時計塔のデザインを担当した渡辺光雄(渡辺仁建築工務店・設計者)は「時計塔という優れたモダンな要素を、外観の様式と調和させるため非常に苦心した」と後に自著で回想している。この一事に象徴されるように、この場所に建つこの建物は「銀座」という街そのものを体現する存在なのだ。伝統と進歩、蓄積と消費......さまざまな対立項を包含する街の中心としてこれほどまでにふさわしい建物が、建築家一個人の発想のみから立ち現われることはおそらくなかったろう。そこには必ず「場」の力が働いたはずだ。戦前戦後を通じて、首都・東京が政治・経済の中枢とは別に「銀座」なる象徴を必要としたように、この街もまた揺るぎない象徴を必要とした。ある時は焼け野原に唯一残った「希望」の象徴、またある時は最先端のモードを映し出す「繁栄」の象徴、そしてまたある時は変化する都市の中にあって市民に安らぎを与える「懐かしさ」の象徴としての建物を―。
銀座地区の容積率アップ(1998年に決定/最高1100%)に基づいて作成された近未来イメージの鳥瞰図(東京都中央区都心高度商業地区再生構築委員会作成)からは、林立する高層店舗群の中に埋もれた「象徴」を探し出すのは難しい。しかし同時に、こんなふうに想像することはたやすい。われわれが自分の足で「四丁目交差点」に立つならば、この建物とともにいつまでも変わらない「銀座」が迎えてくれるはずだと。

銀座・和光時計塔 略年表

memory_wako-building_04_linetouka.jpg

memory_wako-building_05_linetouka.jpg

株式会社和光
デザイン室主任

武蔵 淳氏

昨年12月にウインドウ・ディスプレイのデザインを引き継ぐ。「銀座を訪れる人々をおもてなしする」をコンセプトに、季節感や銀座の街並みを意識しながら、今後、和光のウインドウ・ディスプレイのデザインを担当する

"時"を超える女神――モードの発信者たる近代建築

「和光」が現在の建物へ移転して正式オープンしたのは、昭和27年(1952)12月のことである。これを記念し、当時気鋭のデザイナーだった原弘、亀倉雄策、伊藤憲治の三氏がウインドウ・ディスプレイを競作して話題を呼んだ。このウインドウ・ディスプレイは、のち「銀座の顔」として世界的に有名となり、現在も年8回のペースで新作が発表され続けている。

「派手なインパクトを狙うのではなく、落ち着ける雰囲気の中でイメージをふくらますようにと心がけています。ただ、銀座ならではの"高級感"は意識しますし、季節感を醸し出すのも必須の条件。そのため、色使いには特にこだわりをもって制作していますね」

最新のディスプレイを手がける武蔵淳氏(同社デザイン室)は「店のお客様だけではなく、銀座を訪れた方すべてをもてなす」つもりで、ディスプレイ制作に取り組んでいると語る。「銀座」を訪れる多くの人々に、この街の魅力を伝えていくという姿勢が印象的だ。建築後70年近くを経た石造りの重厚な外壁――そこにしつらえられたウインドウ・ディスプレイが若々しい表現の舞台となり、日々、街の新たなイメージ形成に寄与している。そこに不自然さが微塵も感じられない。それについて、同社渉外部の鵜浦典子部長による示唆に富む指摘があった。

「お客様がショッピングという贅沢な時間を過ごすのにふさわしく、この建物には、洗練され、品格ある空間であることが予め要求されました。そうした明確な建築のポリシーを実現できたからこそ、現在に至るまで古びることなく、モードの発信者としての役割を果たし続けているのだと思います」

memory_wako-building_06_linetouka.jpg

タイトル:春色を敷きつめる 期間:2001年3月1日~4月下旬 四季の中で最も希望に満ちた時期、「春」。その喜びを色で表現した。花の妖精達が春色のカーペット を一面に敷きつめ、「春」への模様替えをしているといった内容になっている

memory_wako-building_07_linetouka.jpg

タイトル:Web 期間:2001年1月19日~2月28日 Webを通じて多種多様なコミュニケーションが距離や時間を超えて可能に。同時に自分達の廻りの小さ な世界からも新しい何かが芽吹くチャンスがあることをコンセプトとしている

例えば、戦前において銀行の店舗ビルが近代建築の高度な達成を示した理由は、それらが「お客様をお迎えする最高の"玄関"と"応接間"を備えた空間」として個性を競い合ったからにほかならない。だが、オフィスビルに組み込まれた現在の「銀行」店舗の多くは、いつのまにか機能性一辺倒の没個性的な存在となり、街並みの形成にむしろマイナス影響を与えている観がある。建築が「技術の粋を尽くした工業製品」であるのは事実だとしても、建物ごとに固有な「個性ある陶芸作品」のような側面を失うべきではない。「技術」はやがて陳腐化するが、用途目的を最大限に実現した「個性」は建物に時を超える力を付与する。

もちろん、時計塔の内部機械やライトアップ照明機器の改良、外壁の定期的な高圧洗浄作業など、所有者がここに注ぎ込んできた費用・労力には並々ならぬものがある。

「銀座が銀座である限り、私共の店を愛してくださる方々がいらっしゃるはずですから」

――鵜浦部長の言葉にも、建物に対する愛着がにじむ。現在まで文化財としての公的な指定はいっさい受けていないが、昭和63年(1988)に日本建築士会連合会が行なった各都道府県のランドマーク選定に際し「東京タワー」「霞ヶ関ビル」といったライバルたちをおさえて東京都代表となった。常に「街」とともにあることを誇りとしてきた建物にとって、最もふさわしい勲章といえるかもしれない。

memory_wako-building_08_linetouka.jpg

銀座4丁目から見た「和光」の全景

memory_wako-building_09_linetouka.jpg

平成4年、時計塔 60 周年を迎えるにあたって、高精度のムーブメントに付けかえられ た。地下2階に設置されている親時計から信号が塔内のモーターに送られ、時を刻 んでいる

1階正面玄関のレリーフ
memory_wako-building_10_linetouka.jpg

特長的な6つの装飾レリーフは、時計塔が完成した昭和7年当時に、服部時計店が取り扱っていた商品をシンボライズしているものが多い

memory_wako-building_11_linetouka.jpg

①貴金属を示すカップ

memory_wako-building_12_linetouka.jpg

②服部時計店の当時の商号

memory_wako-building_13_linetouka.jpg

③商業の神にまつわる紋章

memory_wako-building_14_linetouka.jpg

④服部時計店の当時の商号

memory_wako-building_15_linetouka.jpg

⑤砂時計

memory_wako-building_16_linetouka.jpg

ダミーキャプション

文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦

この記事をダウンロード