近三ビルヂング(旧森五ビル) 前編

オフィスマーケット 2002年11月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

「近三ビルヂング」は滋賀「森五商店」の東京支社社屋として1931年に竣工した。ほぼ方形の外観に重厚な黒褐色のタイル、整然と並ぶ縦長のガラス窓が機能美と工芸美を両立させている。1992年の改修では「原設計に忠実に、外観を尊重する」というテーマで工事が進められたという。

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時空を超越する存在感―― 後期表現派"の記念碑的作品

近三ビルは、滋賀県近江八幡に本拠を置く呉服卸商「森五商店」の東京支店社屋として昭和6年(1931年)に竣工した。それまで渡辺節建築事務所で研鑽を積んできた建築家・村野藤吾の独立後の処女作であり、以降の旺盛な建築活動の出発点――ひいてはわが国の建築史においても記念碑的な作品として位置付けられるものである。
当時の建築界を席捲するモダニズムの真っ只中にあって、渡辺事務所で様式建築の骨法を徹底的に学んだ村野は、このビルを手掛ける直前にヨーロッパを遊歴して新旧の建築作品を目の当たりにした。そこから生み出されたこの建物は、様式を拒否するのではなく、むしろそれを自在な表現の力にするという村野独自の立脚点を高らかに宣言するものであり"後期表現派"と呼ばれる一連の流れの源流に位置するものとなった。
竣工時の建築概要は、鉄筋コンクリート造7階建(地下1階)、延床面積4000㎡。ほぼ方形の躯体に重厚な黒褐色タイルを全面に貼った壁面と、自然光を受けて輝く縦長のガラス窓を整然と配置した造形の見事なバランスが、この建物に機能美と工芸品的な美を二つながら賦与した。さらに当時のドイツ建築の鋭角とは対照的に独特の柔らかみを生起させる軒廻りのアール、また、直截なフォルムを強調しながらも薄いパラペットを庇状に渡して無限連鎖の印象を抑制した壁面と屋上の扱いなどは、村野が様式建築の美的要素を独自に咀嚼した結果、生まれてきたものとされている。
1階店舗部分のファサードには黒御影石で縁どったやはり縦長の大きな窓を歩道に向けて並べ、玄関から内部へ足を踏み入れると、壁面に厚さ30mmものトラバーチンを貼ったエントランスホールをガラスモザイクの華麗なヴォールト天井が飾っている。トラバーチンとは大理石に似たドイツ産の石材で、鉱泉の沈殿物が凝固して生成されるという。複雑な帯模様を特徴とし、大理石より堅牢で温度・湿度の変化にも影響を受けにくい。これもまた、設計者・村野が、豪華さや美観に加え、日本の風土までをも熟慮した上で選定した素材だったろう。

このビルに使用されているトラバーチンは黄色が主調だが、各階で微妙に色の階調を変化させてあり、その凝りようには思わず唸らされる。エントランスのガラスモザイクもドイツのビレロイ・ボッホ社から素材を輸入し、美術学校出身の奥村新太郎がデザインに腕を揮った逸品である。
もう一度、窓の話に戻ろう。雨の多い日本の風土においては、庇のない浅い窓を保護することは非常に困難だった。竣工当時に採用されたジュラルミンサッシュ(鉄にジュラルミンを被覆)は、その頃の工業技術の限界に挑戦する試みであり、デザインの根幹を成す要素として村野が特に心を砕いたところだったという。浅く広い窓と、それを最大限に活かすために選択された軽金属サッシュは、その後のビル建築において主流を占めるに至るが、ここに現われた最新の"窓枠"こそは日本における先駆例であると同時に、確固たる方法論に裏打ちされたデザインと素材の融和という意味でも、まさに当時の世界最高水準を示していた。
さて、戦火を免れて社屋から貸事務所ビルへと用途が変更されたこの建物は、昭和31年(1956)に後部と8階部分を増築し、当初にほぼ倍する延床面積7840㎡の規模となった。なお、増改築には村野自身が携わり、施工には当初からこれに携わる竹中工務店が担当したことにも由来して、造築の違和感はまったく感じさせない。
その後、平成4年(1992)に築後60年の全面改修を経て、現在に至るが「過去と現在」「様式とモダン」「日本と西洋」といった数々のギャップを超越融和して、独自の存在として立ち続ける建物の創造をめざした稀有な建築家・村野の意志は、今に至るまで脈々と受け継がれている。

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近三ビル外観(平成14年9月10日撮影)

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着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相

昭和4年
(1929)
・10月 ニューヨーク株式市場大暴落。世界恐慌となる。
・この年、建築家・村野藤吾が独立し、欧州を旅行する。
昭和5年
(1930)
・4月 日・米・英がロンドン海軍軍縮条約を締結。
・7月 サッカーの第1回ワールドカップ大会が開催される。
・この年、合名会社・森五商店の東京支店ビルが着工される。
昭和6年
(1931)
・5月 エンパイアステートビルが完成。
・6月 満州事変始まる。
・同月 森五ビルの上棟式が挙行される(年内竣工)。

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近三商事株式会社
代表取締役会長

森 郁二氏

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代表取締役社長

森 隆氏

理念の共有と継承―― 建築への理解が生む保全意識

「戦後も大いに活躍された方ですが、現存する戦前の村野作品は特にどれもみな大切にされていると感じます。もちろん、われわれもこの建物の価値を理解し、メンテナンスには十分な努力を傾けてきました。村野先生は非常に顧客(施主)に大切にされた建築家だったのだな......よく、そんなふうに言うのですが」

森会長の言葉には、端々に建物への愛着がにじむ。同時に、設計者である村野藤吾その人に対する深い敬愛の念がある。
戦後まもない学生時代に初めて村野と対面したという森会長、その印象を「余計なことは言わず、要点に限って話を進めるビジネスマンタイプ」だったと回想する。確かに、芸術家肌のタイプも多い建築家の中にあって、建築家・村野の真骨頂は、施主・施工者らの意向を正確に理解しようと努め、共有されたイメージを冷静に設計図面へと練り上げていくところにあったといえる。小豆色とも表現される黒褐色タイルの外装と開放的な窓割は、おそらく呉服商という施主の業務イメージを近代的なビルディングにどう調和させるかという問いに対して村野が提示した大胆な解答だった。

「設計を発注した先代社長と村野先生の間には、おそらく建物の印象・構成について深く共有するものがあったのでしょう。竣工当時には、最新鋭のビルであるにもかかわらず、1階内部にすぐ接客用の広い和室(写真)が設けられていたといいます。もちろん、それも先生自らの設計によるものでした」

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社長室ドア。竣工時から現在までずっと使われつづけている

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水飲み場。竣工当時1階に設けられていた

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当時、接客用として設けられていた広い和室

町々をめぐる文化の伝達者としての"近江商人"を源流とする森五商店がまだ焼け野原のごとき東京に第一歩を踏み出すにあたり、施主と設計者が共有したイメージとはどのようなものだったろう。想像だが、江戸町人の「通好み」に応え得る洗練された美だったのではないだろうか。江戸時代後期には、流通・情報革命によって関西の「すい」と江戸の「いき」が融合した「大通」――すなわち通の中の通と呼ばれる豪商・文化人が輩出したが、彼らの身なりは見た目は地味ながら重ね着の中などに贅を尽したものだったという。近三ビル竣工当時の建築評論に「衣服の表たる外観は渋い木綿か結城にして、裏地の室内には派手な文様の羽二重をつけたような江戸好み」(蔵田周忠)とあったそうだが、まさに言い得て妙なる評言である。
平成4年の築後60年改修は、窓をエルミン(鋳物アルミ)製サッシュに更新するとともに、剥落の心配される外壁タイルの全面張替と更新、屋上防水と内装にまで及ぶ全面改修となったが、このときも、躯体の安全性確認の上で、でき得る限り原設計に忠実な改修とする方針が採られた。
竣工・増築当時の材料確保・工法が困難であるため、タイルはオリジナル(240×98mm)より小型(190×75mm)の二丁掛に、横軸上下開閉式だった窓は鋼製ステンレスカバー枠のエルミン製縦軸回転窓に変更されざるを得なかった。しかし、開閉方式が変更されたにもかかわらず平面の美を損なわずに整列する窓、サイズ変更・全面張替となったにもかかわらず色合いと角部分のアールまでを見事に再現した外壁――現在見るビルの印象は、なお自らが村野藤吾の作品であることを堂々と誇り高く主張しているようだ。
建築作品に対する理念の共有――ひいては"心意気"の継承とでも言おうか―― 大きな負担と労力を厭わず名建築に再び次代を生きる活力を吹き込んだ所有者・設計者・施工者の努力は、高い評価とともに後世に語り継がれることだろう。

文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦

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竣工当時の近三ビル外観。当時は森五ビルという名称だった

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現在の近三ビル。増築の違和感はまったく感じさせない。

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近三ビル入り口

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1階エントランスホールの天井アップ

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株式会社日本設計
保存プロジェクト総括

田原幸夫氏

"修復"と"改修"をつなぐもの――「置換」という概念

「最近では、建築の保存・修復についての考え方も、単なるモニュメントの保護ではなく、生き生きとした生活環境を創り出すための手法として捉え直されるようになってきました。しかし、活用に関する明確な支援措置がない現状において、近代建築の保存という問題は、われわれ建築家にとっても相変わらず悩ましいテーマであることに変わりありません」

こう語るのは、イコモス(国際記念物遺跡会議)の活動などを通じて、長年保存の実務に関わってきた日本設計の田原幸夫氏である。

氏は、1964年にまとめられた"歴史的遺産保存"のための国際的文書「ベニス憲章」に着目し、そこから抽出した四つのキーワード"活用""修復""置換""増築"という概念を通じて、現代日本における近代建築の維持・保全について建築家の立場からさまざまに考察しているが、そこで一貫して主張されるのは「修復にあたって安易な模倣を排除すること」「現在および将来を通じて実用に耐えうる建築物として成立すること」である。

「近代建築の保存・修復においては、表面的な形態のコピーではなく、オリジナルの"精神"をいかに継承するかが大切。建物の機能を考えずに表面だけを模倣する行為は"まがいもの"を作り出す危険性と常に隣り合わせだからです。また、使われ続けている現役の近代建築の保存は、従来の文化財の"修復"とは異なる"改修"の要素が非常に多いのです。こうした建物の保存にあたっては、守るべきものを明確に見極めた上で、"変えるべきところは変える"という決断も必要でしょう。現代の建築家が歴史的建造物の保存にあたって果たすべき役割もこの点にあるのだと考えています」

氏の論文『ベニス憲章に学ぶ建築蘇生術』に登場するさまざまな事例には、近代建築の保存をめぐる建築家たちの苦闘の跡がにじむ。"活用"による再生の事例として、倉庫群から商業施設に生まれ変わった函館ヒストリープラザ、山荘を現代の美術館の一部として蘇生させた大山崎山荘美術館など。"修復"の事例として、阪神・淡路大震災で深刻な被害を受けた日本聖公会川口基督教会(写真左)、商業ビルに用途変更された旧京都中央電話局新上分局(写真右)など。そして"置換"の事例として、田原氏はブリュッセルのモネ劇場などとともに近三ビルを取り上げている。そして、近三ビル改修工事における、サッシュと外装タイルの「置換」へのプロセスを高く評価するのである。

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日本聖公会川口基督教会

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旧京都中央電話局新上分局

竣工後60年を経てさすがに老朽化を免れなかった近三ビルは、平成4年(1992)に大規模な改修工事が施されて現在に至っている。先にも述べたが"改修"の基本方針は、でき得る限り「原設計に忠実」であることに置かれ"オリジナルの外観を尊重すること"が大きなテーマとされた。
具体的な補修ポイントとなったのは、剥落が心配される外装タイルの全面張替と窓サッシュの交換だったが、オリジナルの完全な再現は困難と考えられた。たとえ同じサイズのタイルを特注したとしても、それをそのまま使うのは安全面で問題がある。もともと採られていた「団子張」と呼ばれる工法は、途方もない手間がかかる上に、いわゆる"職人技"に負うところが多く、現在の技術・工法には見合わない。窓サッシュも同様に、上下開閉式にこだわることは、貸事務所ビルという用途の性格上、機能面からあえて回避せざるを得ないという結論に達し、近三ビルの改修においては、オリジナルのコンセプトを継承しつつ設計者が素材・デザインを現代のものに置き換えていく"置換"の手法が採られることとなったのである。
サッシュの変更は『非常用進入口の確保』という法規制への対応の結果でもある。近三ビルの改修工事は東京都の「歴史的建造物の景観意匠保存事業」の認定を受けたが、窓サッシュについては除外されたという。おそらく、サッシュの意匠変更が「文化財」としてのオーセンティシティ(真実性)を満たさないとの判断によるものだったろう。しかし、"上げ下げ窓"特有の「日」の字型の意匠は変更されているとはいえ、新しいサッシュや枠回りのディテールからは、オリジナルデザインへの深い敬意が読み取れるのである。

「"修復"と"改修"という二つの概念のせめぎあいの中で、現代に生きる建築家としての精一杯の回答だったのではないか」(田原氏)

それを裏付けるように、改修成った近三ビルは平成5年度のBELCA賞ロングライフ・ビルディング部門で表彰を受けた。

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現在の近三ビルのサッシュ

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近三ビルの改修前と改修後のサッシュ

「法規をクリアすること、安全性を確保することは、実務の現場では常に絶対条件として存在します。加えて社会制度の不備と法制度の矛盾、地震・台風といった日本特有の風土的制約......日本の実務建築家は、解けない問題を無理矢理に解かされているようなものですね。しかし、あらゆる矛盾する条件と真摯に向き合いながら、建築家は建物のオーセンティシティを追求することをけっしてあきらめてはならないのです」

田原氏の言葉通り「近代建築の保存」という命題は、"ゴルディアスの結び目"のようなものなのかもしれない。しかし、結び目を断ち切った剣が存在したと同様に"正解"はなくとも現代という時代の"真実"は必ず存在する。日本の建築家と近代の建築が共にその場所に到達するため、われわれ市民もまた"現代における建物のオーセンティシティ"を改めて考え直す必要があるだろう。

海外に見る「置換」の事例

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トレンティウス邸(16世紀)の置換された窓

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リンゴット・ファクトリー(1921年)のオリジナルのサッシュと置換されたサッシュ(1階部分)

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フィンランディアホール(1971年)の外装大理石の置換アールト設計の名建築も、外装の大理石全体にそりが生じるという重大な欠陥が発生した。(写真) その結果オリジナルの大理石は、サイズを 変更した新しい同種の大理石により、全面置換されることとなった。(2000年改修工事完了)

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ライヒスターク(19世紀)の置換された開口部

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