「日本工業倶楽部会館」保存・再生プロジェクト

オフィスマーケット 2003年3月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

日本工業倶楽部は1917年に設立され、集会施設である「日本工業倶楽部会館」が竣工したのは1920年だった。戦中、戦後、平成と建物は残ったが、耐震と安全性の問題から全館保存は不可能という判断が出る。保存と再生を両立させた大規模プロジェクトについて、その改修プロセスについて詳しく紹介する。

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「保存」と「再生」の融合――過去と未来を接続する試み

大正6(1917)年に当時のわが国を代表する実業家329名によって結成された日本工業倶楽部は、第一次世界大戦後の好況を背景に、翌年の4月に同倶楽部の所有になる会館の建設に着手した。工事におよそ2年半の歳月をかけ、竣工したのは大正9年の11月。地上5階、鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)。正面屋上には小倉右一郎作の像が二体置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にする。これは、当時の二大工業であった石炭と紡績の象徴だった。「近世復興式」と呼ばれる建物全体のフォルムは、それまでの主流だった古典的様式に新傾向のゼッツェシオン様式を積極的に組み合わせ、さらに当時注目されつつあったアメリカ型高層オフィスビルの長所も採り入れた大正期建築の特徴を顕著に示すものであった。
設計は横河民輔ひきいる横河工務所によるもので、ファサード担当は松井貴太郎、インテリア担当は橘教順と鷲巣昌。国賓クラスの来訪も考慮し、正面入口部分にはドリック・オーダーのエントランス・ポーチを配してある。重厚な外観は日本の財界活動のシンボルたるにふさわしく、また、一階広間、二階大会堂、三階大食堂など、各室それぞれにも、豪華さと気品を共に追求した個性的な内装がふんだんに施された。
しかし......この建物の運命は、必ずしも順風満帆とはいかなかった。竣工後、わずか3年にして関東大震災による大打撃を被り、第二次大戦の戦中・戦後を通じても、軍やGHQへの供出・徴用を余儀なくされなければならなかったのである。
さらに時が流れて平成の世となると、所有者は会館の存続について大きな岐路に立たされた。震災後に建設された近代建築の多くが「耐震」を主眼として設計・施工されたのに対して、この建物は耐震性・安全性の面で多くの問題を抱えていたからだ。
全館の保存は不可能という現実に直面した所有者――社団法人・日本工業倶楽部は、メンバーによる「建築委員会」と並行して、伊藤滋慶応大学教授を座長とする「歴史検討委員会」を組織し、登録有形文化財として保存すべき範囲を明確にした上で現実的な打開策を摸索した。その結果、敷地の所有者である三菱地所による永楽ビルヂング新築計画と一体化させた会館の"一部保存"という方策が導き出されたのである。
特に歴史的価値の高い大会堂・大食堂などが配された建物の西側3分の1は完全保存、それ以外の部分はでき得る限り内外の部材を再利用するかたちで新築・再現するという壮大なプロジェクトが動きだしたのは平成12(2000)年12月のこと。解体部分の採取材を保存し、翌年1月を期して「保存」と「再生」を高度に融合させた会館の「新築工事」が開始された。創建当時の図面等は一切残っていない。しかし、工事にあたる技術陣は、わずかに保管されていた古写真などを分析しつつ、竣工時の建物を再現することを目標とした。屋上の像、ドリック・オーダーの石柱、一階壁面の石材等は保存材を使用し、玄関から5階に至る大階段、広間も竣工時に復元することを目ざした。
こうした努力を積み重ねて、平成15年(2003)年2月に工事は完了する。地上30階建の永楽ビルを背景に、今、鮮やかに甦る「都市の記憶」――脈々と受け継がれてきた「過去」と、これからの百年を見据えた「未来」を接続する装置として再生した日本工業倶楽部会館。このプロジェクトが、以後の名建築保存および街並の整備計画に対して大きな示唆となることに異論はないだろう。建物すべての保存が不可能であっても、所有者の意志と技術陣の挑戦が提示する最善の策は存在する。この事例に学ぶさまざまな取り組みが、今後、全国各地へ広がることを期待したい。

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株式会社三菱地所設計
常務取締役

岩井光男氏

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清水建設株式会社
東京支店建築第二部 工事長

野上 勇氏

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株式会社三菱地所設計
丸の内設計部 副部長

佐藤和清氏

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元 清水建設株式会社
保全部

木下 宝氏

大正期名建築の再生――プロジェクトの建築史的意味

プロジェクトの技術的な核心は、なんといっても会館の3分の1にあたる西側の保存部分(大会堂・大食堂)と、再現・新築となる中央・東側部分を、安全性を確保した上で接続し、完全に一体化した建物として成立させることにあった。

「まず、それ以前に、躯体ごと保存する西側部分に影響を与えずに、他の部分を解体することに非常な神経を使いました。同時に、竣工当時の強度のまま再現した場合に、果たしてそれで持つものかどうか......現代の基準を満たす建物として成り立つかどうかの検討・判断も難しかったですね。ともあれ、解体はまさに発見の連続。名建築へ注がれた過去の技術に触れることには大きな感動がありました」

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倶楽部棟の施工を担当した清水建設の野上氏は、工事が始まった2年前をこう振り返る。
保存部分に炭素繊維による躯体補強を施した上で、床下に仮受の鉄骨梁を差し込み、仲通り方向へ1.2メートルの曳家を実施。そうしておいて、新築の再現躯体と一体化させ、新たに建造した4フロアの地下躯体の上へ免震定着する――手順のみを記せば淡々としたものだが、かつてない画期的な試みである。これを成功させるために、技術陣の並々ならぬ労苦が費やされたことはいうまでもない。

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床下に仮受けの鉄骨梁を差し込む

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仲通り方向へ1.2メートルの曳家を実施した

建物の外壁に施されている歯型装飾は、凹凸の1組で1ピースを構成し、様式を崩さずに安全性を確保した。外壁タイルは高圧洗浄でもとの色味を確認し、当時の製品のばらつきを計画的に再現した5種類の新注品と組み合わせて再現。総重量13トンというドリック・オーダーのエントランス・ポーチはそのまま使用。上に載る梁の石は鉄骨を入れたPCに加工し一体化することで耐震性を高めたという。

「しかし、内外装とも単なる"再現"ではありません。使い勝手の向上を目指すことはもちろん、将来の用途変更にも対応できるよう"現代のビル"としての機能強化・付加価値についても最大限に配慮しました」

こう語るのは、30階建のタワー部も含めて全体の設計監理にあたった三菱地所設計 丸の内設計部の佐藤副部長である。窓サッシュはオリジナルのデザインを再現しながら、ステンレス製(フッ素樹脂塗布)のものに総入替した。スプリンクラーの新設といった防災的対応も欠かせない条件である。「古い器」を快適な空間にするため、困難を工夫で克服しつつ保存部分の天井裏にも空調ダクトをめぐらせた。

一方で、第二次大戦時に供出され失われたままだった大階段の金属製手摺りは、古写真を典拠に創建時のものを再現してある。こうした「復刻」部分と、階数表示などにあえてアナログ的なテイストを付加したエレベーターといった最新設備が違和感なく調和している。

解体と再現工事に携わった大工さんたちの作業をはじめ、漆喰塗りなど、現在では稀少となった高度な職人技が随所に注ぎ込まれた点も特筆に価する。また、解体によって得られた知見が今後多方面に生かされることを考えれば、全館保存を超える意味をそこに見出すことができる。

「丸の内の街区全体の活性化に結びつくということで、都市計画的な意味合いが認められ、行政とのやりとりも大変スムーズに運びました。これからの名建築保存のあり方・方向性を指し示す事例として評価していただけるのではないでしょうか」

「現在考えられる最高水準のものができたと思います。きれいになって、改めて惚れ直しましたよ」

統轄責任者である岩井常務取締役、長きにわたって会館建物のメンテナンスに携わってきた木下氏、共に"ひと安心"という表情が浮ぶ。

大正期を代表する日本工業倶楽部会館を見事な「現代建築」へと再生させた今回のプロジェクトは、大きなエポックとしてわが国の建築史に記憶されることだろう――再研磨によって回復した屋上の男女像が、ひときわまぶしく誇らしげに輝いていた。

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後方に見えるのは30階建のタワー部

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西側の保存部分を残した復原工事

文:歴史作家 吉田茂

保存解体・新築調査

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再現・復原

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