大阪市中央公会堂

オフィスマーケットⅢ 2006年6月号掲載

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※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。

大阪中之島に1918年竣工した「大阪市中央公会堂」は2002年の大規模な改修工事を行っている。基調となるネオ・ルネッサンス様式にバロックの要素を含み、さらに美しさが増した。歴史を壊さず、いかに保存と再生へつなげたのか、詳しく説明していただいた。

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大阪市中央公会堂外観

水と緑に映えるネオ・ルネサンスの名品――市民の高い志が生んだ文化拠点

北を堂島川、南を土佐堀川に囲まれた大阪中之島の地は、遠く江戸時代初期に豪商・淀屋常安によって開発され、舟運の便から諸藩の蔵屋敷が集中し、"天下の台所"の中心として機能してきた。明治維新以降も、官公庁、教育機関、銀行・各種企業の本支店などが次々に建てられ、商都・大阪における行政・経済の中枢を担った。 現在も同地区には、日本銀行大阪支店(1903年竣工)、大阪府立中之島図書館(1904年竣工)、そして、大阪市立中央公会堂といった近代建築の貴重な名品が建ち並ぶ。中でも、市民のオアシス中之島公園に接する"中央公会堂"は平成14年(2002)年9月に改修工事が完了したばかりであり、その壮麗な美観によって一際目を引く存在である。
竣工は大正7年(1918)年10月。鉄骨を芯とした煉瓦及び石造。地上3階地下1階。長く大阪の文化拠点として機能してきた中央公会堂誕生の経緯には、志高く、また哀しい或る男の物語が秘められている。明治42年(1909)、"訪米実業団"(渋沢栄一団長) がアメリカへ向けて出発した。これに大阪財界代表の一人として加わった株式仲買人・岩本栄之助は、自ら積極的に公共・公益事業へ私財を提供する米国実業界の在り方に深い感銘を受ける。帰国した岩本は大阪市民の財産として文化醸成の核となる公会堂の建設を願い、44年、当時の金額で100万円を個人として市に寄付。市は直ちに中央公会堂建設事務所を財団として発足させ、大正元年(1912)、指名設計競技の結果、29歳の早稲田大学講師・岡田信一郎の案が1席を射止めた。建設事務所顧問の辰野金吾と片岡安の実施設計により、翌年から工事が始まったが、さらにその翌年、ヨーロッパに第一次世界大戦の火の手が上がり、日本もこれに参戦することとなった。大阪仲買人組合の代表となっていた岩本は高騰の続く株価を注視していたが、大正5年秋、戦火の収束と株の暴落を予測し、果敢に売り出動を決行する。だが、相場の騰勢は止まず、ついに手詰まりとなって拳銃自殺を図り、数日後の10月27日に無念の死を遂げた。「その秋を待たで散りゆく紅葉かな」の辞世が残る。わずか数十日後の12月上旬に株価は岩本の予測通り大暴落、そして、死から2年後、同じ秋10月に中央公会堂は落成した。あまりにも非情な運命の巡り合わせであった。
100万円という額は、現在の貨幣価値に換算して50億円以上ともいう。父の代からの仲買人だった岩本は、義侠心に富み、人望があり、決して金銭に執着を持つ人物ではなかった。彼の理想と一大阪市民としての高い志は、現在に残る公会堂の存在に遺憾なく示現されている。
竣工以来80年余にわたり、多くの文化催事に寄与してきた建物の意匠は、基調となるネオ・ルネッサンス様式にバロックの要素が加味されている点に特色があるとされる。だが、実は岡田の当初案では重厚なネオ・バロック様式が外観のベースだったという。実施設計段階でバロック的要素は抑制され、全体がネオ・ルネッサンスに変更されたのである。そのため、公会堂の外観は赤煉瓦と花崗岩による"辰野式"の印象が色濃いものとなった。辰野自身が手掛けた日銀大阪支店との照応を意識したものだろうか。ちなみに、彼の代表作・東京駅の"赤煉瓦駅舎"開業は大正3年のことである。
とはいえ、完成した建物は見事なバランスと優れた意匠性を備え、結果的に辰野が選択した様式は、市民のための公会堂にふさわしく重過ぎない親しみやすさを醸し出している。大正期を代表する歴史的建造物として、改修後の平成14年12月に国の重要文化財指定を受けた。

「保存」と「再生」の積極的両立――市民の財産を後世へ受け渡すために

第二次世界大戦の戦火をかいくぐったとはいえ、関東大震災以前に建設であるため地震への耐力不足、また、設備面でも現代の使用者ニーズに十分に応えられないなどの課題は避けられなかった。昭和40年代当時、利用状況も、音響設備の陳腐化により音楽関係の催し物は減り、講演会など特に設備的な条件を要しないものが大半を占める状況だったという。しかし、昭和45(1970年、中央公会堂を始めとする歴史的建造物が数多く残っていた中之島東部地区を対象に古い建物の建替を含む地域再開発計画の立案が報道されると、市民レベルの保存運動が一気に高まり、それに応えるかたちで、昭和53年(1978年、大阪市は60周年を迎えた公会堂の保存についての検討委員会を組織した。そして昭和63年、市長が公会「大集会室」。2階から望んだ写真。今回の大改修で、天井やシャンデリア等を当時の意匠に戻した。堂の永久保存と爾後の活用を表明、将来構想を策定した上で平成8(1996年に保存・再生の基本設計がまとめられ、改修工事が平成11年3月より開始された。
工事の特徴は、市民の貴重な財産である公会堂を半永久的に"保存し、現在~将来にわたるニーズに応え得る集会施設に"再生" するという二つの目的を両立させることにテーマが置かれた点であった。公会堂としての用途を持続させる以上、他施設と比して機能・設備面で難がある状態のままでは保存意義が半減する。一方で、機能を優先させるあまり歴史的・文化的価値を損なってはならない。いかに両者のバランスを取りつつ最終的な目的を達成し得るかが最重要課題となる。
まず、耐震性については"免震レトロフィット法を採用。上部構造体の補強は主に建物四隅の小部屋での煉瓦壁補強(RC添打と屋根補強(天井内でのブレース付加による水平剛性強化に止め、積層ゴムとダンパーによる免震装置を既存基礎の地下部に設けることで必要な耐震性能を確保した。建物外壁・内部空間への影響を抑制するための選択である。外壁は創建時の材料が良く残っているものの、全体に汚れが目立ち、広い範囲に浮きとクラックが生じていたため、全体を洗浄して樹脂注入による補強を行なっている。窓も基本的に創建時の鋼鉄サッシュを残し、傷んだ部材のみを取替修理して使用した。一旦外したガラスも破損したものを除き再利用した。屋根は過去に全面葺き替えられており、今回の工事ではその上から緑青銅板を葺き重ねてある。

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「免震レトロフィット法」を採用した免震装置。必要な耐震性能を持たせながら、建物の外観や内部意匠の改変を最小限に抑えることに成功した。

内部空間では、補強・洗浄とともに、貴重な装飾、絵画・彫刻等を創建時の姿に戻すことに最大限の努力が払われた。3階の中集会室、小集会室、特別室は、繰り返し塗り重ねられていた塗装を一旦除去した上で当初の色遣いを再現した。特別室の天井画を始めとする絵画作品は洗浄・補修し、ステンドグラスも分解・洗浄して組み直して居る。中集会室、小集会室の床は、当初の楢材寄木張の傷みが激しかったため、それを下部に保存した上に新たに寄木張を施したが、以前の遺構をガラス越しに見られる工夫を行なった。大集会室は、昭和12(1937年の大規模改修により創建時の姿から大きく変更が加えられていた。そのため、舞台周りや空調設備を一新するなどの機能面の改修と同時に、天井の形状やシャンデリアを始めとして、ここも当初の意匠に戻すこととなった。

これらはすべて、創建時の姿を正確に復元するための地道な調査と、平成の匠たちの熟練の技が結集してこそ可能となったものである。3年以上の歳月をかけ、中央公会堂の改修工事は平成14年の9月に完了した。

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「中集会室ステンドグラス」。天井丸窓のステンドグラスで、帆船と海をテーマとした連作のひとつ。

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「特別室ステンドグラス」。鳳凰と大阪市の市章「澪漂(みおつくし)」をデザイン化。差込む日差しを拡散し、絵画を保護している。

竣工前後 ―― 歴史と世相

明治44年(1911) 株式仲買商・岩本栄之助が大阪市に100万円を寄附。
財団法人・中央公会堂建設事務所が開設される。
大正元年(1912) "懸賞金付き設計競技"を実施。岡本信一郎案が1席となる。
大正2年(1913) 岡田案を基に、辰野金吾・片岡安の実施設計により着工。
大正3年(1914) 7月、第一次世界大戦が勃発する(8月、日本参戦)。
12月、東京駅(辰野金吾・設計)開業。
大正5年(1916) 12月、株式相場大暴落。東京・大阪で取引停止。
大正7年(1918) 10月、中央公会堂竣工。翌11月、開業。
11月、第一次世界大戦が終結する。

建物概要
所在地 大阪市北区中之島1-1-27
敷地面積 5,641.81㎡(約1,707坪)
建築面積 2,330.35㎡(約705坪)
延床面積 9,886.56㎡(約2,991坪)
構造 地上3階・地下2階建
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大阪市中央公会堂
館長

谷 清司氏

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「大集会室」。2階から望んだ写真。今回の大改修で、天井やシャンデリア等を当時の意匠に戻した。

再生成った商都の宝箱(ルビ/トレジャー・ボックス)――
歴史的建造物活用の一指標として

赤煉瓦と石を積み上げたファサードを彩るアーチ、オーダー、青銅のドーム......それら一つひとつが創建時の輝きを取り戻して、今、眼前にある。その姿は、どこか"宝箱を連想させる。時にオルゴールのように美しい旋律をも奏でるこの"宝箱は、その内部に文化というかけがえのない宝を醸成し守り続けてきたのである。

「ヘレン・ケラー女史の講演会、人類初の宇宙飛行士ガガーリンやテレシコワ女史の歓迎集会、海外から招かれた歌劇団によるオペラ、コンサートなど、中央公会堂は、近代大阪の文化・芸術・社会活動の発展に大きく貢献してきました。改修の総工費101億円の中には、市民の浄財による寄付15億円が含まれています。また、リニューアル後の利用者数の大幅な増加という事実は、この建物と大阪市民を結ぶ深い絆を証明するものではないでしょうか」

中央公会堂の谷清司館長が感慨深げに語る。改修工事で、建物南側にサンクンガーデンを設け、エレヴェータも従来の1基から5基へ増設した。また、トイレなどの設備も利便性を高め、スロープ等、現代の基準に合致したバリアフリー対策も随所に施された。美観を取り戻し、機能・設備面も強化された公会堂は利用者に好評で、抽選による利用予約申し込みもほぼ空きがないほどの盛況ぶりだという。日本で一番活用されている重要文化財――いや、歴史的建造物一般に視野を広げたとしても、中央公会堂の利用頻度がトップクラスであることは疑いない。

1~2階の大部分を占める大集会室は1161席。音響・舞台装置を全面改修し迫り舞台も新設、荘厳かつ独特な雰囲気の中で、日々さまざまなイベントが開催されている。3階の中集会室(500席はヨーロピアン・スタイルの内装で、小規模な音楽会、パーティ、ダンス会場などに利用される。会議や講演会に手頃な小集会室(150席は木材を贅沢に使用した空間。3階の各室は結婚披露宴の会場としても人気があるそうだ。

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「大集会室」。音響・舞台装置を全面改修。1161席を持ち、現在さまざまなイベントに使用されている。

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「中集会室」。創建時のシャンデリアをそのまま使用。アーチは非常に貴重な桧材を加工したものである。

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「小集会室」。贅沢に木を使用した室内。17面の壁の刺繍飾りは、桐をモチーフにしている。

「すべてに愛着がありますが、私自身はこの小集会室が一番落ち着けるような気がしますね。これからご案内する特別室は洋画家の松岡壽氏の天井画と壁画が見所ですが、ちょっと不思議な感じを受けますよ」

天井画のモチーフは『日本書紀』の"天地開闢。イザナギ・イザナミの両神が国造りの矛を授かる劇的なシーンが、半円状に反った天井いっぱいに描かれている。見上げるとしだいに遠近感が麻痺して吸い込まれそうな気分になる。また、櫛形の小壁の絵画は古代の難波に都を定めたという仁徳天皇。北側の壁画は"商いの神様" とも伝わるスサノオノミコト。洋風の室内と日本神話の世界が融合し、強烈なインパクトで迫ってくる。

「絵画の修復に当たられたのは、この分野で第一人者とされる杉浦勉氏です。氏に限らず、今回の修復工事では、非常に多くの方々の協力をいただきました。携わった人全員が"思い"を共有して実現した"再生"だったと感じています」

改修により、戦時下の金属供出で失われていた階段手摺の装飾や、正面アーチ屋根上の"ミネルバとメルキュール像"も60年ぶりに復活した。

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「特別室」。創建当時の貴賓室。当時を代表する洋画家の松岡壽氏の天井画と壁画が見所である。

学問と商いの神は、商都大阪の文化拠点たる建物のシンボルとして真に相応しい。
さて、このように面目を一新した公会堂だが、取材中、廊下に据えられた木製のベンチのようなものにふと目を惹かれた。谷館長が、大集会室でかつて客席として使われていたものを"保存"したのだと教えてくれる。木材を削って坐部を浅く窪ませただけの簡素な椅子なのだが、試みに腰掛けてみて驚かされた。昨今のホールにある硬いクッション椅子よりよほど坐り心地が良い。
椅子の下部にある金具は、往時の観客たちが各自の山高帽やソフト帽を邪魔にならぬよう引っ掛けておいたものだという。時と共に文化・風俗は移り変わっていくが、生ある限り建物は古き良き時代を記憶して現代のわれわれにそれを伝えてくれる。大正時代の空気をじかに呼吸したかのようなリアルな感触に包まれ、しばらくはただ言葉もなかった。

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「特別室 北側の壁画」。商いの神様と伝えられているスサノオノミコトが描かれている。

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「正面アーチ型屋根」。60年ぶりに復元されたシンボル像。右側がローマ神話に登場する学問の神「ミネルバ」、左側が商の神「メルキュール」。

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「特別室 天井画」。半円状に反った天井いっぱいに、「日本書紀」からイザナギ・イザナミの両神が国造りの矛を授かる劇的なシーンが描かれている。

文:歴史作家 吉田 茂

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